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第11話 燃やされかけた帳面

 その夜、施療院の中庭で、火が、焚かれた。


 寒さを、しのぐための火では、なかった。ケラーの命を受けた下男が、両腕に、帳面を抱え、火のそばに、立っていた。エルナの、記録――疫病のあいだ、誰が、いつ、どこで、どうなったかを、書きつづった、あの帳面だった。


 揺れる炎が、下男の顔を、赤く、照らしていた。


「筆頭医様の、お指図です」


 下男は、気の毒そうに、けれど、逆らえずに、言った。


「誤った記録は、施療院の名を、汚す。……焼き捨てよ、と。命令ですので。あっしも、いやなんですが」


 エルナは、火の手前に、立ちはだかった。


「それは、記録です。二十二人が、生きて、朝を迎えた、その理由が、書いてあります。……焼けば、次に、同じ病が来たとき。また、同じだけの人が、死にます。この火は、帳面を焼くのでは、ありません。まだ生まれていない、誰かの命を、焼くんです」


「どけ」


 声が、庭に、響いた。豪奢な白衣。ケラーが、回廊の上から、見下ろしていた。腕を組み、勝ち誇った顔で。


「魔法をかけたか、かけなかったか。施療とは、それだけだ。壁を作っただの、順番を変えただの――そんな、下賎な帳面を、公の記録と、偽られては、宮廷医療の権威に、関わる。……焼け。ぐずぐずするな」


 下男が、震える手で、帳面を、火にかざそうと、した。


「――待たれよ」


 杖の音が、庭に、こつん、と、鳴った。


    *


 テオドール院長が、夜着のまま、回廊に、立っていた。老いた背を、まっすぐに、伸ばして。冷たい夜気の中で、その姿には、不思議な、静けさがあった。


「この施療院の、長は、まだ、わしだ。院内の記録を、焼く指図は、筆頭医と、いえど、越権であろう。エーミール」


「院長」


 ケラーの声が、苛立った。


「老いて、下働きの、世迷い言に、たぶらかされましたか。魔法で、治らぬ病など、ない。隔離など、無用の、混乱――」


「ならば」


 テオドールは、静かに、遮った。


「なぜ、隔離した区画と、しなかった区画で、生きて帰った者の、数が、これほど、違う。……エーミール。おまえは、その数字を、見たか。見た上で、焼けと、言っておるのか。それとも、見て、しまったから、焼けと、言うのか」


 ケラーは、言葉に、詰まった。


 見て、いたのだ。だからこそ、焼きたいのだ。その数字が、残って、しまえば――「魔法をかければ済む」と、五十年、言い続けてきた、自分の医療そのものが、否定されて、しまうから。


 権威が、たった一冊の帳面を、恐れて、いた。


 そこへ、もう一つの、足音が、加わった。黒い外套。ラインハルトが、腕を組み、火のそばへ、歩いてきた。炎の明かりが、その硬い横顔を、なぞる。


「その帳面は、軍も、写しを取ってある」


 彼は、淡々と、言った。嘘だった。だが、その声には、一片の、揺らぎも、なかった。まるで、事実を、読み上げるように。


「防疫は、軍の管轄だ。疫病下の、死者数は、軍の記録でも、ある。……焼いたところで、消えん。無駄なことは、やめておけ。それとも、軍の記録に、手を出すか。筆頭医どの」


 ケラーの顔が、朱から、青へと、変わった。


 しばらく、何か、言おうと、口を、動かして。だが、言葉は、出てこなかった。彼は、下男に、帳面を、置くよう、顎で、命じると、白衣を、翻して、去っていった。


    *


 火は、消された。


 帳面は、エルナの手に、戻ってきた。すすで、少し汚れた表紙を、エルナは、そっと、撫でた。危ういところだった。あと一息、下男の手が、動いていたら。


 人が、引いたあと、ラインハルトが、ぼそりと、言った。


「軍の写しなど、ない。……口から、出まかせだ」


「存じています」


 エルナは、小さく、笑った。それから、隠していた包みを、そっと、開いて、見せた。中には、もう一冊、まったく同じ数字の、書かれた帳面が、あった。


「でも、写しなら、本当に、あります。……こちらに。都合が悪くなったものは、消される、と、思っていたので。院長先生に、失うなと、言われた夜に、書き写しました」


 ラインハルトが、その、二冊目を見て、めずらしく、目を、見張った。それから、低く、笑った。今まで、聞いたことのない、掠れた、笑い声だった。


「……お前は、本当に」


 彼は、言いかけて、やめた。かわりに、こう、言った。


「敵に、回さなくて、よかった」


 エルナは、二冊の帳面を、胸に、抱いた。


 一冊は、火に、さらされた。もう一冊は、闇の中で、静かに、守られていた。数字は、まだ、消えていない。


 消えていない、かぎり。それは、いつか、勝手に、語りはじめる。


 都合の悪い、者たちの、前で。


第11話、ありがとうございます。

ケラーがついに、エルナの記録を「焼く」という手に、出ました。数字を恐れる権威と、それを守る院長・軍医団長。そして、抜かりなく写しを取っていたエルナ。

消えなかった数字が、次回、いよいよ、公の場へ持ち出されます。続きを見守っていただけると嬉しいです。

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