第8話 治した、という嘘
金色の髪の男が、施療院に、凱旋のように、現れた。
ギルベルト・フォン・ローゼンハイム。宮廷ヒーラー。かつて、エルナを「無能」と、広間で捨てた男だ。
彼のうしろには、供と、そして、礼を言い続ける、一人の貴婦人がいた。ギルベルトは、いつもの、非の打ちどころのない笑みで、居並ぶ癒し手たちに向かって、声を張った。
「ヴェルマー伯爵を、治療してきた。斑の病だ。魔法で、斑を消し、熱を下げた。伯爵は、床を払われ、今朝には、屋敷を歩いておられる。……見よ。これが、治癒だ。隔離だの、区画だのと、下働きが騒ぎ立てる前に、才ある者が、さっさと治せばいい。それだけの、話ではないか」
癒し手たちが、感嘆の声を、もらした。さすがはローゼンハイム家の嫡子だ、と。
ギルベルトの視線が、隔離区画の、白い仕切りの前に立つエルナを、ちらりと、とらえた。勝ち誇った目だった。「見たか、無能」と、その目は、はっきりと、言っていた。
エルナは、何も、言わなかった。ただ――手にした帳面を、静かに、開いた。
*
ヴェルマー伯爵。エルナは、その名を、帳面の中に、探した。
あった。伯爵の屋敷の、場所。その周囲で、この数日のうちに、赤い斑の患者が、五人。うち二人は、伯爵の、使用人だった。線は、伯爵の屋敷を、起点にしていた。
ギルベルトは、伯爵の斑を「消した」。熱を「下げた」。それは、確かに、その場では、治って見えただろう。伯爵自身も、治ったと、信じただろう。
だが。
斑が消えても、その人が、誰かにうつしていれば、病は、続く。伯爵は「治った」と、屋敷へ帰り、隔離もされず、客と会い、使用人に囲まれ、そして――周りへ、静かに、病を、配っていた。治ったという安心が、かえって、伯爵から、身を退く理由を、奪っていた。
エルナは、帳面を手に、ギルベルトの前へ、進み出た。
「ヴェルマー伯爵は、本当に、治られたのですか」
「何?」
ギルベルトの笑みが、わずかに、ゆらいだ。
「伯爵の周りで、この五日、五人が、同じ斑で、運ばれています。二人は、伯爵のお屋敷の、使用人です。……斑を消しても、うつることは、止まっていません。治った、のではなく――ただ、見えなくなった、だけです」
「……無礼な」
ギルベルトの声が、上ずった。
「私が、治療した。この目で、斑が消えるのを、見た。熱が引くのを、確かめた。それを、たかが、下働きの帳面ごときで――」
「帳面は、嘘を、つきません」
エルナは、静かに、記録を、差し出した。
「私は、あなたを、責めていません。ただ、この線が、どこから、どこへ、伸びているかを、見ていただきたいんです。……伯爵から、人へ。人から、また、人へ。魔法は、傷を塞げます。でも、この線を、消すことは、できないんです」
ギルベルトは、帳面の線を、見た。
見て――言葉を、失った。
その顔に浮かんだのは、怒りでは、なかった。もっと、別の、何か。たとえば、幼い頃から「才さえあれば、すべて解決する」と教えられ、そう信じて、生きてきた者が、初めて、その信仰の"穴"を、覗き込んでしまったような――そんな、うろたえだった。足元の床が、急に、頼りなくなったような。
名門の、嫡子。治せない患者を「見ないふり」することに、いつしか、慣らされていた男。彼もまた、この構造の中で、幼い頃から、目を塞がれて、育っていた。
だが、エルナは、そこまでは、言わなかった。免じるつもりも、詰るつもりも、なかった。ただ、線を、二人のあいだに、置いただけだった。
「……戯言だ」
ギルベルトは、絞り出すように、そう言うと、供を連れて、逃げるように、去った。あの、光のような足取りは、もう、そこには、なかった。
*
その背を、少し離れて、ラインハルトが、見ていた。
「殴らないのか」
彼が、ぽつりと、言った。エルナは、首を振った。
「殴っても、線は、消えません。数字だけが、いつか、勝手に、語ります。……私が声を荒らげるより、そのほうが、ずっと、遠くまで、届きますから」
ラインハルトは、しばらく、エルナを見て、それから、ふっと、息を吐いた。笑ったのか、呆れたのか、分からない、吐息だった。
「……敵に、回したくない女だな。お前は」
その夜。
ヴェルマー伯爵の容態が、急変した、という報せが、届いた。
斑は、消えていた。熱も、一度は、下がっていた。けれど、消えたはずの病は、体の奥で、静かに、根を張り、広がっていた。「治した」という言葉が、砂の城のように、崩れはじめていた。
エルナは、帳面に、その一行を、書き足した。
書きながら、思った。この一行が、いつか――「魔法をかければ済む」と言い続けてきた者たちの、逃げ場を、ひとつ、またひとつと、静かに、塞いでいくのだと。
第8話、ありがとうございます。
「治した」という言葉が、数字の前で、崩れていきます。かつてエルナを捨てたギルベルト――彼の傲慢の奥にも、実は「見ないふりを教えられて育った」構造がありました。免罪はしませんが、ただの悪人にも、しません。
疫病は、いよいよ、最悪の峠へ。続きを見守っていただけると嬉しいです。




