第5話 無能の居場所
数字は、嘘をつかなかった。
色の札と帳面を使いはじめて、十日。施療院で亡くなる者の数が、目に見えて減っていた。運ばれた者のうち、どれだけが生きて帰れたか――エルナの帳面には、それが、日ごとの数として並んでいた。
増えていく生存者の数。減っていく黒の札。
誰も、口には出さなかった。けれど、癒し手たちは、いつの間にか、エルナの札を頼りにするようになっていた。「次はどれだ」と、色を見て手を動かす。エルナに順番を尋ねる者さえ、出てきた。
無能と呼ばれた娘に、施療院での居場所が、できはじめていた。
「面白いものを、作ったな」
しわがれた声がした。
振り返ると、白い顎ひげの老人が、杖をついて立っていた。この施療院の長、テオドール院長。もう長く現場を退いていた老医師だ。
「院長先生」
「わしは、魔法が万能だとは、昔から思っておらん。塞いだあとを、誰も見ておらん。ずっと、気にかかっておった。……だが、年老いて、変える気力もなかった」
テオドールは、壁の色札を、目を細めて眺めた。
「おまえさんが、それをやったのだな。数えて、分けて、並べ替えて」
そして、ふと、エルナの顔を見て、動きを止めた。
「……その目。どこかで、見た気がする」
エルナは、静かに答えた。
「祖母が、グラーフェンの者でした。アガーテと申します」
テオドールの目が、大きく見開かれた。
「アガーテ。……アガーテか。あの、変わり者の癒し手の。傷を塞ぐより、塞いだあとをよく見ろと、口うるさく言っておった、あの――」
老人は、しばらく言葉を失っていた。それから、深く、うなずいた。
「そうか。血は、争えんな。あの人も、魔法より、人を"見る"人だった」
エルナの胸の奥で、何かが、静かに満ちた。
膝に乗せてくれた祖母。「よく見える目だよ」と言ってくれた、あの人。一族の中で、たった一人、この娘を見ていた人。
その人の見ていたものを、いま、自分がなぞっている。
「院長として、言っておく」
テオドールが、杖で床を、こつん、と鳴らした。
「この娘の帳面と札を、施療院の決まりとする。文句のある者は、わしのところへ来い。……もう、わしは何も恐くないからな」
老院長の、静かな後ろ盾だった。
*
その居場所を、汚しに来た者がいた。
「――これはこれは。無能の令嬢が、雑用とはお似合いだ」
金色の髪。非の打ちどころのない笑み。ギルベルト・フォン・ローゼンハイムが、供を連れて、施療院に立っていた。宮廷ヒーラーの視察、という名目らしかった。
かつての婚約者を、彼は、憐れむように見下ろした。
「治癒の才もない娘が、血の匂う場所で、布きれに色を塗っているとはな。……グラーフェン家も、落ちたものだ」
供の者が、追従して笑った。
エルナは、顔を上げた。
昔の自分なら、うつむいただけだろう。けれど、いまは違った。手のなかに、十日ぶんの帳面があった。
「言い返すことは、ありません」
エルナは、静かに言った。
そして、ギルベルトの前に、帳面の束を、そっと置いた。
「これは、この施療院で、いつ・誰が・どうなったかの記録です。……魔法をかけたあと、悪くなって亡くなった方の数も、ここにあります。それが、なぜ起きたのかも」
ギルベルトの笑みが、わずかに、こわばった。
「魔法をかければ、それで終わり。そう思っている方が、いちばん多く、見落としています。……いつか、この数字が、勝手に語る日が来ます。私は、何も言いません。ただ、数えて、残していくだけです」
エルナは、それだけ言って、頭を下げた。
叫びも、罵りも、なかった。ただ、事実の束が、二人のあいだに置かれていた。
ギルベルトは、何か言い返そうとして――言葉を、見つけられなかった。帳面の数字から、目をそらした。そして、供を連れて、足早に去っていった。
その背を、エルナは、静かに見送った。
*
夜。
人の波が引いた施療院で、エルナは寝台のあいだを見回っていた。眠っていなかった。もう、幾晩も。
気づけば、壁にもたれて、目を閉じていた。ほんの少しだけ、と思った、そのときだった。
肩に、何かが、かけられた。
目を開けると、黒い外套が、自分の肩を包んでいた。ラインハルトのものだった。
当の本人は、少し離れた寝台のそばで、負傷兵の様子を見ている。こちらを、見てもいない。
「……団長」
「顔色が、黒の札だ」
ラインハルトは、兵から目を離さずに言った。
「倒れる前に、少し眠れ。……お前が数えられなくなったら、この場は、また元通りになる」
素っ気ない声。けれど、外套は、まだ温かかった。
エルナは、その温もりを、しばらく、返せずにいた。
必要とされたことが、なかった。名門の娘として、婚約者として、いつも「才がない」と言われ続けてきた。誰かに、いてくれと言われたのは――たぶん、初めてだった。
「ありがとう、ございます」
小さく言うと、ラインハルトの手が、一瞬だけ、止まった。それから、また、何事もなかったように動いた。返事は、なかった。
けれど、その一拍の間が、エルナには、なぜか、ひどく優しく思えた。
*
その夜、エルナは、帳面の最後の一枚に、目を留めた。
この三日で、同じような熱と、同じような発疹の患者が、門前に運ばれた者のなかに、三人。傷ではない。戦で負ったのでもない。ただ、熱を出して、倒れた者たち。
数が、少しずつ、増えている。
エルナは、ランプの火を、じっと見つめた。
傷なら、順番を組み替えれば拾える。けれど、これは――もし、これが、広がる類のものなら。
魔法では、うつる病は、止められない。
エルナは、その一行に、そっと、印をつけた。
まだ、誰も気づいていない。けれど、数字は、静かに、何かの近づく足音を、告げはじめていた。
ここまでお読みくださって、本当にありがとうございます。エルナの最初のひと区切りをお届けしました。
無能と呼ばれた娘は、魔法をひとつも使わずに、施療院に居場所を作りました。そして、軍医団長ラインハルトとの距離も、少しずつ。
けれど――帳面の数字は、次の大きな影を告げています。物語は、ここから本番です。
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