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第4話 色のついた札

 修羅場の翌朝、施療院は、奇妙なほど静かだった。


 死者が、少なかった。


 昨日の負傷者の数を思えば、あり得ないほどに。誰もが、それを口には出さなかった。けれど、生き延びた兵が寝台で寝息を立てているのを見て、癒し手たちは、どこか落ち着かない顔をしていた。


 なぜ、いつもより多く助かったのか。


 その答えを、エルナは壁に貼り出していた。


 三色の、小さな布の札。


 赤は、すぐに手当てが要る者。青は、少し待てる者。そして黒は――もう、静かに看るしかない者。寝台のひとつひとつに、札が結ばれていた。誰の手が空いたら、どの色から診るのか。一目で分かるように。


 そのそばに、あの帳面が開かれている。運ばれた刻。傷。手当て。そのあと。びっしりと、数字が並んでいた。


「ハンナさん。この列、青から赤に変えます。熱が上がってきました」


「あいよ」


 ハンナの動きが、昨日とはまるで違っていた。棘のあった声も、いまは短く、実務的だ。太い腕が、迷いなく寝台を運ぶ。


 昨夜、選ぶことを長く拒んできたこの人が、いちばん深く、この段取りを理解していた。一人でも多く拾うための順番だと、体で分かってしまったからだ。


 施療院が、回りはじめていた。


 そのときだった。


「――これは、何の遊びだ」


 冷たい声が、廊下に響いた。


 豪奢な白衣。金の縁取り。肥えた体を反らして立っていたのは、宮廷筆頭医、エーミール・ケラー。この施療院を含む、王都じゅうの治癒を束ねる、権威そのものの男だった。


 ケラーは、壁の色札を、汚いものでも見るように眺めた。


「布きれに、色を塗って。帳面に、何を書きつけている。……施療とは、魔法だ。癒し手が手をかざし、傷を塞ぐ。それがすべてだろう」


「魔法をかけたあと、悪くなる方がいます」


 エルナは、静かに言った。


「その方たちを、拾うための順番です。誰が、いつ運ばれて、いつ様子が変わったか。数えれば、見えてきます」


「数える?」


 ケラーが、鼻で笑った。


「下働きの分際で。数を数えるのが、施療か。魔法も使えぬ者が、口を出すな。……グラーフェンの、出来損ないが」


 その名を、久しぶりに聞いた。


 治癒の名門、グラーフェン。エルナは、いつものように、聞き流そうとした。


 ――けれど、ふと、思い出した。


 幼い頃。魔力のない孫を、ただ一人、膝に乗せてくれた祖母のことを。「エルナ。おまえの目は、よく見える目だよ」と言った、あの人のことを。祖母もまた、一族の中で、少し変わり者と言われていた。


 なぜ、いま、それを思い出したのか。エルナには、まだ分からなかった。


「札を、外せ」


 ケラーが、命じた。


「帳面も燃やせ。この施療院に、下賎な雑務は要らん。魔法の邪魔だ」


 エルナは、色札に手をかけようとした。逆らう術は、なかった。無能で、下働きで、後ろ盾もない。


「――待て」


 その手を、止めた者がいた。


    *


 黒い外套。返り血は、もう洗い落とされていた。けれど、まとう空気は、昨日のままだった。


 ラインハルト・フォン・アシェンバッハ。


 軍医団長は、壁の色札の前に立ち、それを、じっと見ていた。


「その札を外すのは、待ってもらおう。筆頭医殿」


「……アシェンバッハ団長」


 ケラーの声が、わずかに、へつらいを帯びた。軍医団長は、宮廷の医官とは別の系統だ。戦場を束ねる、伯爵位を持つ男。頭ごなしにはできない相手だった。


「これは、私の管轄です。下働きの手すさびに、団長が口を出されることでも」


「手すさびではない」


 ラインハルトが、遮った。


「昨日、俺はこの目で見た。声を上げられぬ兵から先に診る。手が空く一瞬を待って、匙を投げた者へ回す。……戦場で、俺たちが喉から手が出るほど欲しかった段取りだ」


 彼は、色札の一枚を、指でなぞった。


「戦場では、選ぶしかない。だが、選び方が悪ければ、拾えたはずの命も落ちる。この娘の方式は――どの順で診れば、いちばん多く生きるかを、目に見える形にしている。俺の隊で、使わせてもらいたいくらいだ」


 施療院じゅうが、静まっていた。


 冷徹で知られる軍医団長が、無能と呼ばれた下働きの娘の仕事を、公然と、認めた。


 ケラーの顔が、赤黒く染まった。


「……戦場の流儀を、宮廷に持ち込まれては困りますな」


 それだけ言い残して、ケラーは背を向けた。豪奢な白衣が、廊下の向こうへ消えていく。去り際、その目が、エルナを一度だけ、射た。


 ――この娘を、追い出す口実を探そう。


 その目は、はっきりと、そう言っていた。


    *


 嵐が去ったあと、ラインハルトは、まだ色札の前に立っていた。


「助かった。……ありがとうございます」


 エルナが頭を下げると、彼は、こちらを見ずに言った。


「礼はいらん。俺が欲しいから、残せと言っただけだ」


 素っ気ない声だった。けれど、その素っ気なさの奥に、昨日と同じ、遠いものがある気がした。


 ラインハルトは、帳面の数字を、しばらく目で追っていた。


「この、黒の札の者。……何人だ」


「昨日は、三人です」


「三人か」


 彼は、それきり黙った。


 三人。手を尽くしても、拾えなかった三人。エルナが、黒の札をつけた者たち。


 その三人を、この男は、まるで――数えているようだった。自分のことのように。


「無理は、するな」


 やがて、ラインハルトは、ぽつりと言った。


「お前が倒れたら、この場が、止まる」


 そして、返事も待たずに、去っていった。


 エルナは、その背を、見送った。


 冷徹だと、誰もが言う男。けれど、拾えなかった三人を、あの人も、忘れていない気がした。


 なぜだろう。エルナには、まだ分からなかった。


 分からないまま――胸の奥が、ほんの少しだけ、温かくなった。


第4話、ありがとうございます。

色の札と帳面が、少しずつ「制度」になっていきます。そして、それを守ってくれた軍医団長ラインハルト。彼が「三人」という数字にこだわった理由は、まだ先の話です。

筆頭医ケラーの反撃も始まります。続きもぜひ、ブックマークで見守ってください。


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