第49話 三度目
検分の広間には、卓が三つ並べられた。
いつもは一つだった。今度は三つ要ったのは、運び込む紙が多すぎて一つでは載らなかったからである。
エルナは中央に立った。後ろの床には、炭で引いた帯を紙のまま移してある。三十年前、十七年前、此度。左から右へ並んでいた。
ダーレム侯は右手の壁際にいた。座って、宝石だらけの指を組んで、こちらを見ていた。この人が検分の場に座るのは初めてだった。前の二度は、立っていたか、廊下で待っていたかのどちらかだった。
*
「グラーフェンの職の者」
検分の長が言った。
「そなたの請いにより、この場を開いた。何を申し立てるか」
「三度、同じことが起きております」
エルナは言った。声を張らなかった。張らなくても、石の広間はよく響く。
「疫の報せが王都に届きます。二日のうちに、薬種の値が三倍になります。値が上がってから買い占めが起き、疫が退きはじめてから、薬が市に戻ります。……三十年前と、十七年前と、此度でございます」
彼女は左の帯を指した。長は身を乗り出して、そちらを見た。
「これは、売った側の記録です。薬種商ギルドの元締めが三十年つけてきたものを、写しでお借りしました」
次に、下の段を指した。帯の下半分は、上半分より厚みがあった。
「これは、受け取った側の記録です。王国じゅうの施療院から、返ってまいりました」
最後に、箱を指した。
「これは、軍の帳面の写しでございます。王国でいちばん多く薬種を買う先は、軍でございますから」
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「三つが、同じ年、同じ月、同じ値で噛み合います」
エルナは言った。書いた者は三組とも別で、互いに面識がない。
「一つなら、間違いということがございます。二つなら、偶然ということがございます。……三つが噛み合うものを、私は、事実と呼んでおります」
広間がざわめいた。
「値を上げた者は、誰か」
「誰も上げておりません」
エルナは言った。この問いが来ることは、分かっていた。
「上げるという行いは、帳面に残りません。残るのは、買い占めた者の名だけでございます」
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「西の丘の、四軒でございます」
彼女は紙を掲げた。写しの束の中でも、いちばん薄い一枚だった。四軒の名と、包の数しか書いていない。
「一軒あたり六十包。四軒で二百四十包。三十年前も、十七年前も、同じ丘の、同じ四軒でございました」
「その四軒に、金を出した者は」
「ケルンの帳面に、書いてございます」
広間の隅で、ヨハン・ケルンが立ち上がった。
「私が書きました」
袖のあたりを、一度だけ押さえた。
「三十年、私の商いの記録でございます。書き換えは一字もございません。……その金の出どころは、ダーレムのお家でございます」
*
侯は動かなかった。組んだ指も解かなかった。エルナは、この人が慌てるところを見たことがない。宮廷の廊下で初めて会ったときも、値をつけようと言ったときも、買いに来た日も、この人はずっと同じ顔をしている。
「侯爵」
検分の長が言った。
「申し開きは」
「無い。薬種を買った。値が上がった。売った。……商いだ。罪に問える法があるなら、聞かせてもらいたい」
「翌年に、宮廷医療の人事が動いております」
エルナは別の束を取った。厚さは、指二本ぶんあった。
「三十年前は筆頭医の座が一つ。十七年前は、その次の座と、薬師の長。動いた座に就いた者の家は、その前の年に、ダーレムのお家から金を受けております」
彼女は紙を置いた。
「これも、商いでございましょうか」
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侯は初めて、指を解いた。
「お嬢さん」
「はい」
「君は、私が三度、同じ手を使ったと申したいのだな」
「いいえ」
エルナは言った。今日、初めて、少しだけ声を強くした。
「四度でございます」
広間が静まった。侯の指が、組んだ形のまま止まっていた。
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「三十年前、この院に、記録をつける者がおりました」
エルナは言った。この一件だけは、紙の束では足りない。
「その者を追い出すために、院の中から出た訴えが使われました。訴えたのは、一人でございます。控えには、下働き一同、と書いてございました」
彼女は控えの写しを掲げた。
「訴人の欄は、削られております」
「証は」
「本人が、ここにおります」
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ハンナが立ち上がった。前掛けをしていた。院で着けているのと同じ前掛けだった。着替えてこいと誰かが言ったのだが、この人は聞かなかった。
「あたしです」
彼女は言った。声は震えていなかった。伝法な、いつもの声だった。
「三十年前、西棟の夜番をしてました。二十一でした。……あの晩、寝台が一つしか空いてなくて、あたしは運ばれてきた男に、もう無理だって言いました。その人は死にました」
広間の誰も、口を利かなかった。石の壁に囲まれた広間で、五十一の女の声だけが響いていた。
「次の日、あたしは門の外で、若い人に言いました。あの婆さんは、人を見捨てる順番を決めてる、って。……そこにいらっしゃる方です」
彼女は侯のほうを見た。まっすぐ見た。
「あたしは、一同じゃありません」
ハンナは言った。
「あたし、一人です」
*
次に立ったのは、テオドールだった。老人は杖をついて、ゆっくり中央へ出た。杖の先が石を打つ音が、そのまま広間の時間になった。
「当時、この院の医師でありました。三十三でございました」
杖の先は、床に据えたままだった。
「評議には呼ばれておりません。……ですが、その前の月に、この院で何があったかは見ております。アガーテ・フォン・グラーフェンが何を書き、それを誰が笑ったかも」
彼は息を継いだ。
「わしは、何もせなんだ」
老人は言った。
「三十年、何もせなんだ。……それが、わしの罪でございます」
*
侯が立ち上がった。外套の裾を直し、手袋を嵌め直した。買いに来た日と同じ所作だった。この人は、去るときの支度が誰よりも早い。
「長」
「なんだ」
「一つ、申し上げておく」
彼は言った。
「私は、この娘に数字で負けたのではない」
彼はエルナを見た。値踏みする目ではなかった。初めて、そういう目ではなかった。
「三十年前、記録は一箇所にあった。院が一つ、帳面が一組、書く者が一人。……潰す先が、あった」
彼は床の帯を見た。
「いまは、無い。北にも、東にも、西にも、名も知らん土地にもある。四百人が、同じ形で書いておる。……私が壊せる場所を、この娘は、王国中にばら撒いたのだ」
侯は微笑んだ。
「壊すのは、得意でな。だが、壊す先が無いというのは、初めてだ」
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裁定は、その日のうちに下った。長は四つの条を読み上げ、読み上げるあいだ、広間の誰も座り直さなかった。
――ダーレム侯、施療院の予算および人事の管掌、これを解く。
――薬種の払い出しの控え、王国すべての施療院に納めしめ、年ごとに検分の場へ出すべし。
――街道の関、費用を王国の常の支出とし、軍の出役をこれに充つ。
――記録の職、王国の職と定む。
エルナは、最後の一行を二度読んだ。二度読んで、後ろを振り返った。壁際でミラが口を押さえていて、押さえた指の間から、変な音が漏れていた。
*
広間を出るとき、侯が待っていた。従者は先に行かせていて、廊下には二人しかいなかった。
「お嬢さん」
「侯爵さま」
「爵位は、残ったな」
「はい」
「家も、領地も、金もだ。解かれたのは、椅子だけだ。椅子は、また作れる」
エルナは彼を見上げた。
「作らせません」
「作るのは私ではない」
侯は言った。
「制度が作る」
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彼は歩き出した。歩きながら、こちらを見ずに、静かな声で言った。
「お嬢さん。制度というのは、人を替えても残るものだ」
エルナは足を止めた。
「三十年前の私が消えても、私の座った椅子は残った。……君の作ったものも、同じだよ」
侯の足音が、廊下の奥へ遠ざかっていった。
「君が消えても」
声だけが返ってきた。
「君の作ったものは、残る」
三度目の検分でした。
エルナは叫びません。数字を三つ、並べるだけです。売った側の記録、受け取った側の記録、そして軍の帳面。一つなら間違い、二つなら偶然、三つが噛み合うものを事実と呼ぶ――第一話から、この人のやり方は何も変わっていません。
侯は、嘘をつきません。薬種を買った。値が上がった。売った。商いだ。この人はずっと、法を破らずにここまで来ました。
ハンナが立ちます。前掛けのままで、着替えてこいと言われても聞きませんでした。三十年前に書き換えられた五文字を、本人が自分の口で戻します。
侯の負け方が、この回のいちばん大事なところです。三十年前は、潰す先が一つしかありませんでした。いまは、四百人が同じ形で書いています。
そして侯は、爵位も家も領地も失っていません。解かれたのは、椅子だけです。廊下で彼が残していった言葉が、この物語の次の段そのものでした。
次回、第二部の締めです。




