第50話 数える人がいる場所
関の縄が外れたのは、裁定の三日後の朝だった。
通行を停むという札を、村の男が二人がかりで引き抜いた。抜いた札を、どうしていいか分からずに手に持ったまま立っていると、後ろから声がした。
「よこせ」
クラウスだった。彼は札を受け取って二つに折り、洗い場の焚きつけの束に放り込んだ。
「これで、いいか」
「あんた、ずっと歩いてたな」
「歩いてた」
クラウスは荷を背負い直した。
「道は、歩かんと道じゃなくなる」
*
辞令は四枚来た。一枚目は関のもので、費用が王国の常の支出になったと書いてあった。二枚目は薬種の払い出しの控えについて。三枚目は手順の写しを王国じゅうへ配ることについて。
四枚目は、短かった。
――記録の職、王国の職と定む。当院の記録の職、ミラ。
エルナはそれを、炊事場まで持っていった。ミラは芋を洗っていた。
「ミラ」
「はい」
「これを」
ミラは手を拭いて受け取った。読んで、もう一度読んで、三度目を読みかけて途中でやめた。
「あたしの名前が」
「はい」
「紙に、あたしの名前が」
「あります」
この子はしばらく何も言わなかった。それから、いつもの声で言った。
「エルナ様。あたし、これ、部屋に貼っていいですか」
*
ハンナは、何も変わらなかった。検分で自分の三十年を喋ったあと、この人は次の日の朝に、いつもと同じ刻に来た。前掛けを着けて、桶を持って、寝台の間へ入っていった。
言おうとした者はいたが、ハンナのほうが先に「早く動きな」と言ったので、言えなくなった。昼過ぎに、エルナが西棟の廊下で追いついた。
「ハンナさん」
「なんだい」
「お辞めになりませんね」
「辞めるかい」
ハンナは桶を持ち替えた。
「三十年、間違えた場所だ。……間違えた場所で、あと何年か働くのが、いちばん重いんだよ。辞めたら軽くなっちまう」
彼女は歩き出した。歩きながら、背中で言った。
「それにあたしが辞めたら、誰が札を貼るんだい」
*
ギルベルトが去ったのは、その週の終わりだった。徴発はとうに解けている。彼がこの数十日ここにいたのは誰の命でもなかった。荷は前と同じで、着替えと書き物の道具だけだった。
門で、エルナが見送った。
「ローゼンハイムのお家へ」
「戻らん。地方の治療所に、空きがあるそうだ。……術後を最後まで見る場所がいい」
「はい」
彼は歩き出しかけて、止まった。止まって、こちらを見ずに言った。
「お前の帳面は」
エルナは待った。
「下賎では、なかった」
それだけだった。
彼は謝らなかった。エルナも許さなかった。門を出ていく背に、エルナは頭を下げなかった。下げるべきものが、何一つ無かったからだった。
*
ケルンは、帳面を取りに来なかった。代わりに使いを寄越して、返さなくてよいと言ってきた。エルナはその使いに帳面を持たせて、そのまま返した。
二日後に、本人が来た。
「お返しいただかずとも」
「借りたものです」
エルナは言った。
「写しは、取らせていただきました。原本はあなたのものです。……あなたの三十年です」
ケルンは帳面を受け取った。角の擦れた、使い込まれた帳面だった。
「お嬢さん」
「はい」
「私は、罰されませんでした」
「はい」
「なぜでございましょうな」
「罰しても、薬が来ないからです」
エルナは言った。
「あなたを吊るしても、次の疫のときに薬が届く仕組みは、一つもできません。……ですから、あなたには、生きて商いをしていただきます。控えを納めながら」
ケルンは目を伏せた。この人は追い詰められると目を伏せる。
伏せたまま、彼は言った。
「厄介なお方だ」
*
ヒルダが来たのは、月が変わってからだった。手に、手順の写しを持っていた。前に持っていたのと同じ紙で、汚れて、端が破れて、何度も開かれた紙だった。
「返しに来た」
「差し上げたものです」
「いらないよ」
ヒルダは紙を卓に置いた。
「村じゅうに写しが回った。うちの村だけで、二十枚以上ある。あたしの一枚は、もう要らない」
彼女は少し黙った。
「あんた」
「はい」
「取り下げないよ」
「はい」
「一生、取り下げない」
「はい」
エルナは頷いた。ヒルダはそれを見て、目を細めた。
「あんたは、そこだけは、いつも同じだね」
彼女は戸口へ行きかけて、振り返った。
「うちの婆さんの婆さんの代から」
ヒルダは言った。
「うちの村は、数えられたことが無かったよ」
*
その日の夕方、エルナは手順の写しを一枚、卓に置いた。王国じゅうへ配る版の、いちばん最初の一枚である。ここから何百枚も写され、遠い土地の、知らない誰かの手に渡る。
一枚目には、名前が無かった。三枚の紙のどこにも、書いた人の名が無い。祖母は、名を書かなかった。
エルナは筆を取って、右上の隅に書いた。
――アガーテ・フォン・グラーフェン 記。
*
「……あれは」
テオドールが後ろに立っていた。
「あれは、名を書かん人だった」
「存じています」
エルナは筆を置かなかった。
「書かなかったから、三十年、誰も知らなかったんです」
老人は何も言わなかった。
エルナはもう一行、その下に書いた。
――エルナ・フォン・グラーフェン 写。
「おまえさんの名も、書くのか」
「書きます」
彼女は言った。
「この手順は、いつか間違いが見つかります。冷やす場所も、配る刻も、三十年経てば違うと分かるかもしれません。……そのとき、誰が書いたか分からないと、直す人が困ります」
エルナは紙を持ち上げた。
「私は、決めます。決めたことを、全部、書きます」
彼女は言った。
「そして、名前を書きます。間違えたのが誰か、分かるように」
*
夜になった。広間の紙は片づいて、寝台が元の位置に戻っていた。床の炭の線だけが、まだ薄く残っている。ミラが何度も擦ったのだが、消えなかった。エルナは机に向かって、写しの二枚目を書いていた。
黒い外套の男が、隣に腰を下ろした。
「終わったな」
「終わりました」
エルナは筆を置いた。今度は、そう答えた。
「話があると、仰いました」
ラインハルトはすぐには言わなかった。ランプの芯を少し上げて、部屋を明るくして、それから、いつもの一拍を置いた。
「前に、言った」
「はい」
「お前が怖がっているところに、いたい、と」
「覚えています」
「あれは、足りん」
エルナは彼を見た。
「怖がっているところだけでは、足りん。お前が数えているところにも、いたい。書いているところにも、いたい。……飯を食っているところにも、寝ているところにも、いたい」
彼は一度、言葉を切った。
「全部だ」
エルナの指が、紙の上で止まった。
「団長」
「いま、言い終わっておらん」
「はい」
ラインハルトは、まっすぐ前を見ていた。こちらを見なかった。この人は肝心なところで、いつもそうだった。
「俺は、数で人を切ってきた男だ」
彼は言った。
「お前は、数で人を拾う人間だ。……俺は、お前の隣で、残りの全部を数えていたい」
*
部屋が静かだった。外で風が鳴っていた。遠くで、誰かが桶を落とす音がした。
「団長」
「なんだ」
「私は、まだ怖いです」
「知っている」
「これからも、間違えます」
「知っている」
「間違えたら、全部書きます。……あなたのことも、書くかもしれません」
「書け。俺の名は、もう一冊のほうに書いてある。二冊目に書かれるのは、悪くない」
エルナは笑った。声を出して笑ったのは、久しぶりだった。
「はい」
彼女は言った。
「隣に、いてください」
ラインハルトが手を出した。差し出したというより、卓の上に置いただけの手だった。エルナはしばらくその手を見ていた。それから、自分の手を重ねた。
大きくて、乾いていて、指の付け根が固い手だった。人を切ってきた手であり、人を運んできた手だった。
彼は握り返さなかった。握り返さずに、そのまま動かなかった。
エルナが横を見ると、耳の縁が赤かった。
*
「団長」
「なんだ」
「これを、お返しします」
エルナは抽斗から、すり切れた手帳を出した。百四十三の名が刻まれた手帳だった。あの検分の夜からずっと、彼女が預かっていた。
ラインハルトは手帳を見た。
「もう、いいのか」
「よくありません」
エルナは手帳を引き戻した。
「やっぱり、預かったままにします」
「どっちだ」
「預かります」
彼女は言った。
「あなたに返すと、あなたは、それを閉じてしまいます。……閉じたものは、忘れられます」
エルナは手帳を抽斗に戻した。
「私が持っていれば、あなたは、私のところへ読みに来ます」
ラインハルトは何も言わなかった。しばらくして、短く言った。
「……敵わんな」
*
三日後の朝に、報せが来た。北の峠の下の施療院からだった。手順の写しは届いている。二人一組も試した。だが、回らないという。
――当院、人が足りず。二人一組、三日でやめ申し候。
エルナは、その一行を長いこと見ていた。紙は届いた。読む人もいた。それでも回らない場所がある。手順は人の上に載っていて、人がいなければ紙はただの紙だった。
「エルナ様」
ミラが横から覗き込んだ。
「これ、どうしましょう」
「行くしかありません」
「行く?」
「……いつかは」
その日、もう一通が届いた。
王国の施療院の一覧だった。手順の写しを配るために検分の場が作らせたもので、数えると、王国には施療院が四十一あった。
エルナは一覧の最後の行で、指を止めた。
――北の峠の向こう、レーヴェンタール辺境伯領。当該地に施療院無し。
無し、と書いてあった。
一つも無い。
*
その夜、エルナは廊下でダーレム侯の声を思い出していた。
――制度というのは、人を替えても残るものだ。
あの人は爵位を失っていない。家も領地も金も残っている。解かれたのは椅子だけで、椅子はまた作れると言った。
――君の作ったものも、同じだよ。
そのとおりだった。エルナは、それを否定できない。
彼女が作ったものも、いつか彼女を離れて、勝手に残る。残ったものが人を助けるのか、それとも次の誰かを縛るのかは、まだ誰にも分からなかった。
窓の外に月が出ていた。
エルナは机に戻って、写しの三枚目を書きはじめた。
ここまでお読みくださって、本当にありがとうございます。第二部の締めです。
ミラの職が、王国の職になりました。第一部の第二話から走り続けて、クビになっても給金が出なくても走っていた子が、自分の職の名を紙で持ちます。この作品でいちばん書きたかった昇進です。
ハンナは、辞めませんでした。ギルベルトは謝らず、エルナも許さないまま別れます。第一話で彼女の帳面を下賎と呼んだ男が、五十話かけて、ここまで来ました。ケルンは罰されず、ヒルダは一生取り下げません。
そして、手順の一枚目に、名前が書かれました。祖母は、名を書かない人でした。書かなかったから、三十年、誰も知らずにいました。その下に、エルナが自分の名前を書きます。誰の判断だったのかが、後から分かるように。
あの人も、話をしました。前回の半歩から、ここまで来ました。手帳は、返していません。
――ですが。侯は、爵位を失っていません。北の峠の下からは、紙は届いたのに回らないという報せが来ました。そして王国の施療院は、四十一。峠の向こうの辺境伯領には、一つもありません。
仕組みを作る話から、仕組みを残す話へ。長い夜は、まだこれからです。




