第46話 読む人がいない
紙は、三十七枚になった。
ケルンの商いの記録を年ごとに割り、疫の年だけを抜き出し、値の動きを並べ、その脇にダーレム家へ出た額を書いた。三十年ぶんある。
エルナは十七日かけて、それを全部写し終えた。
並べると、形が見えた。
*
疫の年は、三度あった。三十年前と、十七年前と、此度である。三度とも、同じことが起きていた。
疫の報せが王都に届く。その日から二日のうちに、薬種の値が三倍になる。値が上がってから囲い込みが始まり、囲い込みが終わってから、薬が屋敷に消える。屋敷から出てくるのは、疫が退きはじめてからだった。
差の金は、ダーレム家へ入っている。
そして、その年の翌年に、宮廷医療の人事が動いていた。三十年前は筆頭医の座が一つ。十七年前は、その次の座と、薬師の長。此度は――まだ動いていない。動く前に、止まっている。
「三度目です」
エルナは誰もいない部屋で言った。
「三度目の途中で、私が、止めました」
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紙を束ねて、麻の紐で括った。書庫で見た三十年前の束と、同じ括り方をした。誰かが解くときに解きやすいように、結び目は片結びにした。三十年前の束を解いたときに、固い本結びで手間取ったのを覚えていたからだった。
そこまでやって、彼女は椅子に座った。
座って、動かなくなった。
*
この紙を、誰が読むのか。評議は開かれない。開くのは宮廷の会計で、その上に侯が座っている。検分は王命で開かれる。王命を請うには評議を通す。通すには会計を通す。どこを辿っても、同じ椅子の前に出る。
院長は読める。ハンナも読める。ミラも、いまは読める。
だが、この三人が読んでも、何も起きない。
起きるためには、この紙を読んで、動ける立場の人間が要る。動ける立場の人間は、全員、あの椅子の下にいる。
エルナは束を見た。十七日かけた。十七日ぶんの夜を使って、三十年を並べた。並べ終えて、いま、それはただの紙の束だった。
*
薬が来なかった日のことを思い出した。あのときも、こうだった。数えて、足りないと分かって、分かっただけで終わった。あのときは祖母の封書があった。三十年前に数え終わっている人がいた。
今度は、その祖母が、ここまで来て負けている。
三冊目の変わり目。薬種の値が一日で三倍になった日。あの人はその日に帳面の使い方を変えて、物を数えはじめた。数えて、並べて、そして――
――わたしは、数えた。だが、数えただけだった。
エルナは、その一行を初めて正確に読んだ。祖母は、途中で諦めたのではない。最後まで数えたのだ。数え終えて、束にして、それを読む人がいなかったのだ。
*
物置の棚に、七冊が並んでいる。あの七冊も、三十年、誰にも読まれなかった。院長が蓋に手をかけては、やめた。読んでしまえば何かをせねばならなくなるからだった。読まないという判断も、判断ではある。三十年ぶん続ければ、それは仕組みと変わらない。
読む人がいないというのは、そういうことだった。
紙は、そこにあるだけでは何もしない。読んで、それをどうにかしようと思う人間が要る。祖母には、それがいなかった。
エルナは自分の束に手を置いた。
私には、いるだろうか。
*
戸が開いた。ラインハルトだった。彼は入ってきて、卓の上の束を見た。麻の紐で括られた三十七枚を。
「終わったのか」
「終わりました」
「読んだ」
「私だけが読みました」
エルナは言った。
「院長先生と、ハンナさんと、ミラも読めます。読んでも、動けません。……動ける人は、全員、あの方の下にいます」
ラインハルトは椅子を引かなかった。立ったまま、束を見ていた。
*
「エルナ」
「はい」
「お前は、一人で数えている」
エルナは顔を上げた。
「三十年前と、同じ形だ」
彼は言った。それだけだった。慰めも、次の手も、彼は言わなかった。この人はいつも短い。短いから、逃げ場が無い。
「団長」
「なんだ」
「私は、祖母と同じところにいます」
「そうだな」
「同じところにいて、同じように負けます」
エルナは言った。声が震えなかったのが、自分でも不思議だった。
「祖母は書きました。私も書きました。書いたものは、二人とも、誰にも読まれません」
ラインハルトは黙っていた。
*
「一つ、違う」
やがて彼が言った。
「何がですか」
「あの人は、去った」
彼は束に手を置いた。
「お前は、まだここにいる」
「いても、何も」
「いるかいないかは、大きい違いだ」
彼は言った。
「戦場では、それだけで生き死にが変わる。誰かが、そこにいる。……それだけで、次に来た者が、そこから始められる」
エルナは彼を見た。この人が、自分の職の言葉で喋るのは珍しかった。
「団長は」
「なんだ」
「私が去ったら、どうなさいますか」
「探しに行く」
彼は即答した。
「どこへでもだ」
エルナは何か言おうとして、言えなかった。この人は、こういうことを、こういう顔で言う。
*
廊下を、誰かが走ってくる音がした。軽い足音だった。速い。転びそうな走り方だった。
戸が乱暴に開いた。
「エルナ様!」
ミラが息を切らして立っていた。髪が乱れて、頬に泥がついていた。
「荷が! 門に、荷が来てます!」
「どこからですか」
「わかんないです!」
ミラは息を吸って、続けた。
「一つじゃないんです。……いっぱいなんです」
この部で、いちばん深いところです。
エルナは、全部数え終えました。三十七枚。十七日かけて、三十年を並べました。疫の年は三度あって、三度とも同じことが起きています。値が三倍になり、囲い込みが起き、薬が屋敷に消え、差の金がダーレム家へ入り、翌年に人事が動く。形は、はっきり見えています。
それでも、何も動きません。読む人が、いないからです。
第二部の前半は、数えても物が無ければ救えない、でした。後半は、その一段下です。数えても、読む人がいなければ動かない。
そして彼女は、祖母の最後の一行を、初めて正確に読みます。あの人は途中で諦めたのではありません。最後まで数えて、束にして、読む人がいなかったのです。物置の七冊も、三十年、誰にも読まれませんでした。
ラインハルトは、慰めません。逃げ場を作らない人です。そのうえで、一つだけ違うと言います。
最後に、ミラが走ってきます。荷が、一つではないそうです。




