第45話 壊し方
最初の紙が来たのは、三日後の朝だった。
――街道の関、費用の裏づけこれ無きにつき、当面の運用を停むべし。
エルナはそれを読んで、二度目を読まなかった。もう読み方を知っていた。関を置けという裁定は生きている。生きたまま、動かなくなるだけだった。裁定を覆すには王命が要るが、動かさないだけなら書式一枚で足りる。この人は、覆すという面倒なことを一度もしない。
*
二枚目は昼に来た。
――記録の職、王国の職に非ず。よって給金の支出を認めず。
ミラは炊事場で、湯を運んでいる途中でそれを聞いた。手に持っていた盥を、そのまま流しに置いて、しばらく動かなかった。
「あたし、クビですか」
「違います」
「でも、給金が」
「出ません」
エルナは正直に言った。ここで嘘をつけば、この子は次から自分の耳を信じなくなる。
「あなたの職は、王命で作られました。作られた職を消すには、王命が要ります。侯爵さまはそれをお持ちではありません。……だから、給金だけを止めました」
「じゃあ、職はあるんですね」
「あります」
「なら、いいです」
ミラは盥を持ち上げた。
「前もそうでした。給金が出なくても、走りました。……あたし、走るのは、ただでできますから」
*
三枚目は徴発の解除だった。治癒魔法士十九人は期間の満了をもって元の場所へ戻る。書式はそう言っていた。満了の日は、もともと来月のはずだった。日付が前倒しになっていることを、誰も説明しなかった。
ギルベルトは荷を作っていた。私物は少なかった。着替えと、書き物の道具と、それだけだった。彼は七冊のうち三冊目だけを卓に残して、あとは棚に戻していた。
「ローゼンハイム」
ラインハルトが戸口にいた。
「残る気は」
「無い」
ギルベルトは荷を背負った。
「残っても、光が出せんだけだ。俺は治癒の術しか持っておらん。この院で足りていないのは、それではない」
彼は歩き出した。
*
門で、一度だけ振り返った。エルナは広間の入口に立っていた。目が合った。ギルベルトは何も言わなかった。頭も下げなかった。手も挙げなかった。
ただ、振り返った。それだけだった。
彼は門を出ていった。
*
四枚目は、物資だった。
――薬種・布・炭の払い出し、控えの様式、定めと異なるにつき差し戻す。
様式は変わっていない。変わったのは、定めのほうだった。新しい定めがいつ出たのか、誰も知らなかった。差し戻された控えの束が、卓の上で日に日に高くなっていく。書き直して出しても、また戻ってきた。二度目からは理由の欄が空白になっていた。
布は残り十九枚になった。炭は三日ぶんだった。
「あんた」
ハンナが卓の向かいに座った。
「これ、いつまで続くんだい」
「分かりません」
「あたしらは、どうすりゃいい」
エルナは顔を上げた。あの言葉だった。薬が来なかった日に、この人が言った言葉と同じだった。
あのときは、答えられなかった。
「布は洗って使います。炭は夜だけにします。……足りない日を、書きます」
「書いて、どうなる」
「どうにもなりません」
エルナは言った。
「ただ、足りなかったことが残ります」
*
五枚目は、来なかった。エルナはそれを待っていた。自分を罷免する紙が来るはずだと思っていた。前にヴィクトルがそうしたように、職を解いて、院から出せば、それでこの人は終わりにできる。
来なかった。
三日待っても、五日待っても、来なかった。
*
七日目の夜に、エルナはようやく気づいた。広間には、まだ寝台がある。患者もいる。だが、記録の職の子には給金が無く、癒し手は帰り、関は止まり、物は差し戻されている。院長は老いていて、看護人は足りない。
そして、運営を司る職だけが、そこに残っている。
――追い出さない。
彼女は自分の帳面を見た。
――一人にする。
周りを全部剥がして、無力になった姿を、本人に見せる。追い出せば怒りが残る。残せば、諦めが残る。三十年前、祖母がこの形で折れたのだ。追われたのではない。残されて、それから、自分で出ていった。
エルナは筆を置いた。
置いた手が、少し震えていた。
*
その頃、関の道では別のことが起きていた。縄が張られ、通行を停むという札が立った。人は通らなくなり、村からの荷も来なくなった。
三日目の朝に、クラウスが荷を背負って縄をくぐった。
「おい」
残っていた村の男が止めた。
「止まってるんだぞ」
「知ってる」
クラウスは歩き続けた。
「札が立ってる」
「見た」
男は縄の内側から声を張った。
「あんた、捕まるぞ」
クラウスは足を止めなかった。振り返りもしなかった。ただ一言だけ言って、坂を下りていった。
「道は、俺のだ」
*
その夜、ハンナが薬草を煮ていた。院の物ではなかった。家の壁に吊るしてあった束を、持ってきたのだった。効くのか効かないのか分からない古い煎じ方で、それでも湯気は上がっていた。エルナは黙ってその横に立った。
「あんた」
「はい」
「三十年前も、こうだったのかね」
ハンナは鍋を見たまま言った。
「あの婆さんも、こうやって、一人ずつ剥がされたのかい」
エルナは答えなかった。答えなかったのが、答えだった。
ハンナは煮汁を掬って、匂いを嗅いだ。それから、鍋の火を少し落とした。
「そうかい」
彼女は言った。
「あたしは、そのときも、ここにいたよ」
壊れ方は、暴力ではありませんでした。紙です。四枚の書式で、積み上げてきたものが順番に外れていきます。関は、費用の裏づけが無いとして停止。ミラの職は、王国の職ではないとして給金だけが止まる。癒し手は、日付を前倒しにされた満了で引き上げ。物資は、様式が定めと異なるとして差し戻し――様式は変わっていません。変わったのは、定めのほうです。
ギルベルトは、何も言わずに出ていきます。頭も下げず、手も挙げず、門で一度だけ振り返りました。この男に台詞を与えないのが、いちばん正しいと思いました。
この回でいちばん怖いのは、五枚目が来ないことです。彼女を罷免する紙は、来ません。追い出さない。周りを全部剥がして、一人にする。三十年前、祖母はこの形で折れました。追われたのではなく、残されて、それから出ていったのです。
次回、この部でいちばん深いところへ行きます。




