第44話 買いに来た人
馬車は四台だった。
先頭が侯の車で、あとの三台は供の車だった。門の外に停まったとき、施療院の中の者が全員、手を止めて外を見た。誰が来たのか、言われなくても分かる車だった。
ミラが走ってきた。
「エルナ様。あの、あの人が」
「分かりました」
「あたし、どうすれば」
「いつもどおりにしてください」
エルナは前掛けを外した。外して、畳んで、卓の端に置いた。それだけが、この日にした唯一の身支度だった。
*
ダーレム侯は広間の中央に立った。外套を脱がず、椅子も勧められる前に断った。この人は立ったまま用を済ませる作法を身につけている。長くいる場所ではないと、体で言う作法だった。
「お嬢さん」
「侯爵さま」
「よい院になった」
彼は寝台の列を見渡した。宝石だらけの指が、数えるように動いた。
「私がこの院の予算を持ったのは、二十九の年だ。あの頃は、ここは物置と大差なかった。……いまは、道の先の村から人が運ばれてくる。運ばれれば、助かる。大したものだ」
「祖母の手順です」
「君の関だ。婆さんは書いた。君は建てた。違うものだよ」
*
彼は懐から紙を出した。折り目のついていない、新しい紙だった。ここへ来るために書かせたものだと、それだけで分かった。
「話が二つある。一つ目だ」
紙を卓に置いた。
「王国の医療の運営を、統べる職を作る。宮廷の下に置く。君がその職に就く。予算は、いま施療院に落ちている額の、十二倍」
広間が静まりかえった。ハンナが桶を持ったまま止まっているのが、視界の端に見えた。
「十二倍でございますか」
「十二倍だ」
侯は指を一本立てた。
「君の手順を、王国の施療院すべてに配れる。配るだけではない。使わせられる。関を、南だけでなく、東にも西にも北にも置ける。……君が四月かけてやったことを、王国が三年でやる」
*
エルナは紙を見た。書いてあることは、彼女が夜中に考えていたことと、ほとんど同じだった。関は南に一つしかない。北にも要る。東にも要る。手順の写しは配ったが、配っただけでは回らない。回すには人が要り、人には給金が要る。
この人は、それを全部知っている。
知っていて、その全部を、卓の上に置いた。
「二つ目は」
「条件だ」
侯は紙の上に、手袋の指を置いた。
「帳面を、私の家に納めてもらう」
*
「帳面と申しますと」
「全部だ。君の台帳。関の記録。婆さんの七冊。ケルンから借りたという商いの写し。……ダーレムの書庫に置く。焼きはせん。誰にも見せんとも言わん。ただ、置く場所を私が決める」
「なぜでございますか」
「散らかっているのが、好かんのだ」
侯は微笑んだ。
「一つの場所にあるものは、管理できる。あちこちにあるものは、できん。……私は、管理する側の人間だ。それだけだよ」
嘘は、一つも無かった。散らかっているのが好かんというのも、本当のことなのだろう。この人は自分の性分を隠す必要が無い場所で、三十年生きてきた人だった。
*
エルナは紙の端に指を置いた。この人は、ケルンと同じ質の話し方をする。筋が通っていて、言い逃れが無く、こちらの言いたいことを先に言ってしまう。違うのは規模だけだった。ケルンは薬を握っていた。この人は、金と職と、王国そのものを握っている。
「侯爵さま」
「うむ」
「お断りいたします」
広間の空気が動いた。誰かが息を吸う音がした。
「理由を聞こう」
「帳面は、次の人が直すためのものです」
エルナは紙のほうを見なかった。
「私は間違えます。間違えたことを書いて、置いていきます。三十年後の誰かが、それを読んで、直します。……ダーレムのお家に入ったら、その人が読めません」
「読ませてやってもよいのだぞ」
「読ませていただくものは」
エルナは言った。
「読めるとは、申しません」
*
侯は黙った。それから、初めて椅子を引いて腰を下ろした。用を済ませて帰るはずだった人が、座った。
「お嬢さん」
「はい」
「私は、脅しに来たのではない。君の手順は、私の金がなければ王国中へ届かん。届かなければ、届かなかった土地の人間が死ぬ。これは意地の話ではない。……算術だ」
エルナは、その言葉を正面から受けた。正しかった。だから怖かった。届かなかった土地の人間が死ぬというのは、彼女がいちばんよく知っている形の話だった。
「侯爵さま」
「なんだ」
「三十年前も、そう仰いましたか」
*
侯の眉が、わずかに動いた。
「祖母は、書きました。書いて、負けました。負けた理由は、いま分かっています。……門の外で泣いていた娘の言葉を、あなたが拾って、名前を消して、一同と書き換えたからです」
「証があるのかね」
「控えに、あなたのお名前があります。立会の二人目です。当時、二十二でいらっしゃいました」
広間は、水を打ったようだった。ハンナが桶を置いた音だけが、遠くで鳴った。
*
侯は立ち上がった。外套の裾を直し、手袋を嵌め直した。怒っている様子はなかった。むしろ、いま初めてこの娘を正面から見た、という顔をしていた。
「よく調べた」
「はい」
「三十年ぶりに、あの紙を出させた者がいたと聞いてな。誰かとは思っておった」
彼は歩き出した。歩きながら、振り返らずに言った。
「お嬢さん。私は、買いに来た。買えるものは買う」
戸口で足を止めた。
「買えぬものは」
エルナは彼の背を見ていた。
「壊す」
*
馬車の音が遠ざかってから、しばらく誰も動かなかった。最初に動いたのはハンナで、桶を持ち直して、何事もなかったように寝台の間へ入っていった。それを見て、ほかの者も動きはじめた。
エルナは卓の上の紙を見ていた。十二倍の予算と、北と東と西の関。断ったものの大きさが、いま、遅れてやってきた。
「エルナ」
ラインハルトが横に立っていた。この人は最初から広間にいた。一言も言わなかった。
「団長」
「よく言った」
それだけだった。
エルナは紙を折った。折って、外套の内に入れた。捨てなかったのは、これが証だからだった。
「団長」
「なんだ」
「私は、正しいでしょうか」
「知らん」
彼は言った。
「だが、お前は、読ませてやってもよい、と言われて、断った。……あれを断れる人間を、俺は一人しか知らん」
侯が、自分で来ました。第一部の終わりに置かれたあの一言が、そのままの形で実行されます。馬車は四台、外套は脱がず、椅子も断って、立ったまま用を済ませる作法で。
提案の中身は、悪くありません。それどころか、エルナが夜中に考えていたことと、ほとんど同じです。関は南に一つしかありません。北にも東にも要ります。手順の写しは配りましたが、配っただけでは動きません。動かすためのものが、まるごと足りていません。
侯はそれを全部知っていて、全部を卓の上に置きます。条件は、一つだけ。嘘は、一つもありません。
そのあと、侯が座ります。用を済ませて帰るはずだった人が、座りました。正しいから、怖いのです。
ラインハルトは最初から広間にいて、一言も言いませんでした。言わないと決めている人です。そのうえで、あとから一言だけ言います。




