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第43話 三十年前のあたしが、あそこに立ってた

「七冊、全部です」


 エルナは、前置きを付けなかった。


「三冊目の途中まで病の記録で、そこから物の記録に変わります。封書も読みました。手順の三枚も、袋の内側も」


 ハンナは竈の前から動かなかった。


「袋の内側」


「はい」


「なんて書いてあった」


 エルナは言葉を選ばなかった。選べば嘘になる気がした。


「わたしを止めたのは、施療院の中にいた、と」


 火が鳴った。ハンナは火掻き棒を置いた。置いてから、椅子に戻って腰を下ろした。腰を下ろす動きが、五十一の女の動きだった。院で見るときの、あの速さがどこにも無かった。


「そうかい」


 彼女は言った。


「あの婆さん、書いてたのかい」


    *


 エルナは何も言わなかった。ハンナは湯呑みを両手で包んで、中を覗き込んでいた。湯気はもう立っていなかった。


「あたしはね」


 湯呑みから目を離さずに、ハンナは続けた。


「あの年、二十一だった。西棟の夜番だった」


 エルナは息を止めた。名簿の写しが外套の内側にある。それを出す必要は、もう無かった。


「夜番ってのは、夜のあいだ、あの棟に一人でいる役だ。医者は寝てる。癒し手も寝てる。運ばれてきたら、あたしが最初に見る」


 ハンナは湯呑みを卓に置いた。


「疫の年だ。夜に、五人も六人も来る。寝台は空いてない。……婆さんが札を作った。赤と青と黒だ。夜番は札を見て、寝かせる順を決めろって」


「祖母が、決めろと」


「決めろとは言わないよ。順を見ろって言うんだ。同じことだけどね」


 ハンナは窓のほうを見た。外はもう暗かった。


「ある晩に、男が運ばれてきた」


「三十四くらいの男だった。荷を担ぐ仕事の人だ。手が、あんたが会った荷駄引きの子と同じ手をしてた」


 エルナは膝の上で指を握った。荷駄引きの手を、彼女は知っている。厚くて、爪が短くて、指の付け根が固い手だ。


「その男が来たとき、寝台は一つ空いてた。一つだけだ。……先に赤の札の子が二人待ってた。十いくつの子と、六つくらいの子だ」


「……はい」


「あたしは、その男に言ったよ」


 ハンナの声は変わらなかった。


「もう無理だ、って」


 窓の外で犬が吠えた。


「言ったのはあたしだ」


 ハンナは言った。


「婆さんじゃない。札でもない。あたしが自分の口で言った。手が足りなかったからだ。ほかの子が二人待ってたからだ。……理由はあるよ。ちゃんとある。理由があるほうが、あとで重いんだ」


 エルナは頷けなかった。頷くことが、この人を軽くするとは思えなかった。重いままにしておくことだけが、いまできる敬意だった。


「その男の女房が、外にいた」


 声は、そこで一度だけ低くなった。


「戸の外だ。入れなかったんだよ、うつるから。……あたしが外へ出て、伝えた。伝えたら、その人は座り込んだ。座り込んで、あたしの足を掴んだ」


 彼女は自分の足首のあたりを、何気なく撫でた。


「掴んで、離さなかった。朝までそうしてた」


    *


 エルナは、そのとき、別の光景を見ていた。石工の家の川沿いの坂だ。ヨーゼフのうわ言。ヒルダが外にいる、入れるな、うつる。門の前でヒルダが叫んだ声。あんた、あの人を見捨てたね。


 同じ形だった。三十年の隔たりの向こうに、まったく同じ形の夜がある。


「ハンナさん」


「うん」


「その次の日に、何をなさいましたか」


 ハンナはすぐには答えなかった。答えるまでに、鐘一つぶんくらいの時間があった。その間、彼女は一度も湯呑みから手を離さなかった。


「訴えたよ」


 彼女は言った。


「院の外でだ。門を出たところに、若い人が立ってた。供を連れてた。指に、大きい石のついた指輪をしてた」


 エルナの背が冷たくなった。指輪。門の外。供。三つの言葉が、書庫で写した一行に、正確に嵌まっていった。


「あたしは、その人に言った。あの婆さんは、人を見捨てる順番を決めてる、って」


 ハンナは湯呑みを見ていた。


「それだけだよ。それだけ言って、帰った。……誰かに言いたかっただけだ。あたしは二十一で、前の晩に人を殺したと思ってて、それを誰かに言わないと、次の夜が来なかったんだ」


「翌る月に、婆さんは院を出た」


 ハンナは湯呑みから目を上げた。


「あたしは、関係ないと思ってたよ。三十年、思ってた」


「なぜですか」


「あたし一人だからさ」


 彼女は初めて、少し声を荒らげた。


「下働きの女が一人、門の外で泣いて、何か言った。それだけで人が院を追われるかい? 追われるわけがないだろう。上には五人も偉い人がいたんだ。あたしなんか、誰も見てやしないよ」


 エルナは外套の内側から写しを出した。出して、卓の上に置いた。紙が薄くて、置いた拍子に端がめくれた。


    *


「これは」


「三十年前の、評議の控えです」


 エルナは、めくれた端を指で戻した。


「訴えの文が写してあります。……訴えた人の欄が、削られています」


 ハンナは紙を引き寄せて読んだ。読むのに時間がかかった。この人は字が速くない。指で行を追いながら、口の中で音にして読む読み方だった。


 やがて、その欄で止まった。削られて、上から書き直された五文字だった。


 ――下働き一同。


 ハンナの手が震えはじめた。


「これ」


「はい」


「これ、あたしは」


 彼女は顔を上げた。目が赤かったが、涙は落ちていなかった。


「あたしは、一同じゃ、ないよ」


「一人だよ」


 ハンナは言った。


「あたし一人だ。ほかの誰も言ってない。あの晩のことは、誰にも言ってないんだ。……なんで、一同になってるんだい」


「そのほうが、重いからです」


 エルナは紙の端を指で押さえた。


「一人の声は、一人ぶんの重さしかありません。一同にすれば、院の総意になります。総意なら、祖母を追い出す理由になります」


「じゃあ、あたしの言ったことは」


「使われました」


 エルナは言った。


「あなたが言ったのは事実です。書かれたことも事実です。嘘は一つも書かれていません。……ただ、数え方を変えられました」


 ハンナは紙を見たまま動かなかった。


「あたしが、あの婆さんを」


「いいえ」


 エルナはその言葉を遮った。自分の声が思ったより強く出て、自分で驚いた。この人に強い声を出したのは初めてだった。


「あなたは、見捨てたのではありません」


 エルナは言った。


「あなたは、数えなかっただけです」


 ハンナが顔を上げた。


「あの晩、あなたは寝台一つと、三人を持っていました。数えれば、足りないと分かります。足りないと分かったら、足りない中でどうするかを決められます。……あなたには、それを教える人がいませんでした」


「婆さんがいたよ」


「祖母は札を作りました。数え方は、渡していません。……渡していたら、あなたは一人で決めずに済みました。……祖母は、そこまで書けなかったんです。だから、あとから書いたんだと思います」


「あとから」


「封書の三枚です。看る者を必ず二人一組とせよ、と書いてあります。一人にすれば、その者が倒れたとき記録が途切れる、と」


 エルナは、そこで一度、息を継いだ。


「あの手順は、夜番のために書かれています」


    *


 ハンナは長いこと黙っていた。窓の外はもう真っ暗で、竈の火だけが土間を照らしていた。それから、掠れた声で言った。


「あの人は、あたしを恨んでないのかい」


「恨んでいません」


「なんで、分かる」


「恨む人は、手順を書き残しません」


 竈の火が、土間の壁を撫でていた。


「次の誰かのために書く人は、その次の誰かを信じている人です。……祖母は、あなたのために書いています。名前は知らなかったと思いますけど」


 ハンナは口を開けて、閉じた。それから、前掛けで顔を拭いた。一度だけだった。拭いて、鼻を鳴らして、椅子に座り直した。


「三十年、間違えてたね」


「はい」


「あんた、そこは否定しないのかい」


「間違えたのは本当ですから」


 ハンナが、笑った。掠れた笑いだった。


「あんたは、ほんとに、そういう子だよ」


 エルナはもう一枚の写しを出した。評議に列した五人の名の頁だった。


「ハンナさん。指輪の人は、この中にいますか」


 ハンナは覗き込んだ。字を追った。


「あたしは字が読めるだけで、名前は知らないよ」


「二人目です」


 エルナは指を置いた。


 ――ダーレム家名代 フェルディナント。


「当時、二十二です」


 ハンナの目が止まった。


「……その人が」


「はい」


 エルナは言った。


「私が、いま、金の流れを数えている人です」


    *


 外へ出ると、ミラが柱に寄りかかったまま眠りかけていた。


 エルナはその肩を叩いて、二人で坂を下りた。橋の上で川の音が聞こえた。昼より水嵩が増しているようだった。


 あの門でヒルダが叫んだとき、ハンナは動けなかった。動けなかった理由を、あのとき彼女はこう言った。


 ――三十年前のあたしが、あそこに立ってた。


 あれは、後悔の言葉ではなかった。告発する側に、自分が立っていたという意味だった。あの人は三十年、自分が誰であるかを知っていた。知っていて、それが何を起こしたかだけを知らなかった。


「エルナ様」


「はい」


「ハンナさん、泣いてました?」


「一度だけ、顔を拭かれました」


「そうですか」


 ミラは少し歩いてから、言った。


「あたし、明日、いつもより早く行きます」


「なぜですか」


「桶、出しておきます」


    *


 施療院の門が見えてきた。エルナは歩きながら、頭の中で二つの夜を並べていた。三十年前の門の外で泣いた女と、この前の門の前で叫んだ女。どちらも、見た人だった。どちらも、拾われた。


 拾った手は、同じ手だ。


「ミラ」


「はい」


「同じ手を、二度使われました」


 エルナは言った。


「三度目は、使わせません」

この部で、いちばん書きたかった回です。

祖母アガーテを止めたのは、ハンナでした。

三十年前、二十一歳の夜番だった彼女は、寝台一つと三人を前にして、運ばれてきた男に、もう無理だと言いました。言ったのは自分です。婆さんでも、札でもありません。翌日、彼女は門の外で、指輪をした若い人に一言だけ言いました。誰かに言いたかっただけです。二十一で、前の晩に人を殺したと思っていて、言わないと次の夜が来なかったからです。

控えには、下働き一同と書いてありました。

エルナは、彼女を罰しません。恨む人は、手順を書き残さないからです。

第十九話で、ハンナは、三十年前のあたしがあそこに立ってた、と言いました。あれは、後悔の言葉ではありませんでした。告発する側に自分が立っていた、という意味です。この人は三十年、自分が誰であるかを知っていて、それが何を起こしたかだけを、知らずにいました。

同じ手が、二度、使われています。

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