第42話 休んだ人
三日目の夕方に、エルナは川沿いの道を歩いていた。
ハンナの家は下の橋を渡って、坂を少し上がったところにあると聞いた。石工の家とは反対の岸だった。
それでも道の作りはよく似ている。洗い物が干してあり、桶が伏せてあり、子どもが走っている。
川に近い場所はどこもこうなのだと、エルナはこの数月で知った。水が近ければ洗い物ができて、洗い物ができる家は人を雇える。そういう順番でこの町はできている。
ミラが横を歩いていた。
「エルナ様。ほんとに行くんですか」
「行きます」
「休んでるのに」
「……はい」
エルナは足を止めなかった。外套の内側に名簿の写しが入っている。歩くたびに、その紙の角が脇に当たった。三日のあいだ、机の抽斗にしまっては出し、出してはしまいを繰り返していた紙だった。読み返しても、書いてあることは一行も増えない。
*
戸を叩くと、すぐに開いた。ハンナは前掛けをしていた。院で見るのと同じ前掛けだった。休みの日にも同じものを着ける人だと、エルナはそのとき初めて知った。休むというのは、この人にとって場所を変えることであって、何かをやめることではないらしい。
「なんだい」
「お邪魔いたします」
「上がんな」
中は狭かった。土間に竈があり、その奥に一間ある。卓が一つと、椅子が二つ。壁に鍋がかけてあり、その下に薬草の束が逆さに吊るしてあった。院の物置にあるのと同じ干し方だった。この人は家でも同じことをしている。
ハンナは湯を沸かしはじめた。
「茶っ葉は安いのしかないよ」
「いただきます」
「あんた、いつも飲んでるやつと同じだ。院の炊事場のは、うちから持ってったやつだからね」
ミラが「えっ」と言った。
「知らなかったのかい」
「知らなかったです。あれ、ハンナさんのだったんですか」
「あんなもん、誰が院の金で買うかね」
*
茶が出た。三つ出た。ミラのぶんもあった。
しばらく、誰も何も言わなかった。窓の外で子どもが二人、何かを取り合って喧嘩していた。取り合っているのは棒きれのようだった。片方が泣きだして、もう片方が慌てて棒を差し出し、泣いていたほうがそれを叩き落とした。犬が吠えた。ハンナが窓のほうを見て、少し笑った。
「うるさいだろ」
「いいえ」
「あたしは、この音がないと寝られなくてね」
彼女は茶を飲んだ。
「院に泊まった日は、いつも寝つきが悪いんだ。……静かすぎてさ」
エルナは湯呑みを両手で持っていた。温かかった。温かいものを持っているのに、指が冷えていくのが分かった。院にいるときは、こんなことは起きない。院では手が足りず、足りない中で動いていれば、体はいつも熱を持っている。座っていると、体が本当のことを言いはじめる。
*
聞かなければならないことがある。
三十年前、あなたは西棟の夜番でしたか。あなたは評議の外の廊下で泣いていましたか。あなたが、祖母を止めたのですか。
言葉は、頭の中では並んでいた。並んでいるのに、口が動かない。
この人は自分のここまでを支えてくれた人だった。初日に小娘と呼び、選別だなんて見捨てる順番を決めるのと同じだと怒鳴り、そのくせ誰よりも早く札を覚えた人だった。頭を撫でてくれた人だった。門で動けなかったことを、自分から謝った人だった。数えるという言葉を、いちばん嫌って、いちばん先に使いはじめた人だった。
聞けば、それが終わる。
終わらないかもしれない。だが終わるかもしれないという想像を、エルナは初めて自分の中に見つけた。
*
ハンナは何も言わなかった。エルナが黙っているのを、そのままにしていた。急かしもせず、話題も変えず、茶を注ぎ足しただけだった。
この人は待つのが上手い。三十年、寝台の脇で待ってきた人だからだ。峠を越えるかどうかを、朝まで待つ仕事をしてきた人だ。待つあいだに何を考えるのかを、エルナは一度も聞いたことがなかった。
「あの」
声を出したのはミラだった。
「あの、ハンナさん。エルナ様が」
ミラはそこで詰まった。
「エルナ様が、その」
十四の子が、二人の間で言葉を探していた。探して、見つからなくて、湯呑みを持ったまま俯いた。
エルナはミラの肩に手を置いた。
「ミラ」
「はい」
「外で待っていてください」
「……はい」
ミラは立ち上がって、戸口へ行った。行きかけて、振り返った。
「エルナ様」
「はい」
「あたし、外にいますから」
戸が閉まった。
*
二人になった。ハンナは湯呑みを卓に置いた。置いた音が、思ったより大きく響いた。
「あの子は、いい子だね」
「はい」
「あんたが来る前は、走るだけの子だったよ」
ハンナは窓の外を見た。ミラが門の柱に寄りかかって、足で石を転がしているのが見えた。転がしては拾い、拾っては転がしている。落ち着かないときにあの子がする癖だった。
「走るだけの子が、いまは職を持ってる。給金も出る。……あんたが来て、いちばん変わったのは、あの子だ」
「ハンナさん」
「うん」
エルナは外套に手をかけた。かけて、止めた。
止めた手を、そのまま膝に戻した。
*
時が過ぎた。外が暗くなりはじめていた。子どもの喧嘩は終わって、代わりに夕餉の匂いがしてきた。どこの家も同じものを煮ている匂いだった。ハンナは立ち上がって、竈の火を掻いた。火掻き棒の音が、狭い土間によく響いた。
背を向けたまま、彼女は言った。
「あんた」
「はい」
「あの婆さんの帳面、どこまで読んだ」
エルナの指が動かなくなった。
火が鳴った。ハンナは振り返らなかった。
今回は、ほとんど何も起きません。茶を飲んで、子どもの喧嘩の声を聞いて、それだけです。
聞かなければならないことは、頭の中に全部並んでいます。三十年前の夜番のこと。評議の外で泣いていた人のこと。そして、祖母を止めたのが誰なのか。
並んでいるのに、口が動きません。
この人は初日に小娘と呼び、選別を怒鳴り、そのくせ誰よりも早く札を覚えた人です。頭を撫でてくれた人です。門で動けなかったことを、自分から謝った人です。聞けば、それが終わる。終わらないかもしれない。それでも、終わるかもしれないという想像を、エルナは初めて自分の中に見つけました。
そして最後に、ハンナのほうから口を開きます。背を向けたまま、火を掻きながら。




