第41話 二十人が消える
書式は一枚だった。
厚い紙でも、赤い蝋でもない。ただの一枚に、短い文が印されていた。
――街道の関に出役せし軍の者、これを本営へ戻すべし。
その下に理由が書いてある。理由は二文字だった。
――費用。
*
エルナはその紙を二度読んだ。二度目でも同じことしか書いていなかった。裁定の重さと、この紙の軽さが釣り合わない。王命は羊皮に朱で書かれ、封蝋が三つ押してあった。これは薄い紙に印を一つ捺しただけのものだった。
関の常設は王命で決まっている。決まったのは十日前だ。ところが、その関を誰の金で回すかは、どの紙にも書かれていない。裁定は関を置けと言った。置いた関を養えとは言っていない。書かれなかったことは、無かったことになる。エルナはそれを、この数月で三度学んでいた。
養う金を出すのは施療院の予算で、施療院の予算を握っているのは一人しかいない。
「団長」
エルナは書式を持って、広間の隅にいた男のところへ行った。ラインハルトは自分のぶんの紙を持っていた。同じ文面だった。
「二十人が、引き上げになります」
「なる」
「止められますか」
彼はしばらく答えなかった。
「……止められん」
*
この人が止められないと言うのを、エルナは初めて聞いた。初めて会った日から、この人はずっと止める側だった。筆頭医の前に立ち、権威の前に立ち、王命の検分の場に手帳を持って立った。二十人を出すと決めたときも、彼が自分で決めた。
「軍の金だ」
ラインハルトは言った。
「兵を出すのは俺の権限だ。だが養う金は本営から出る。本営の帳面に、街道の関という項目が無い」
「作れませんか」
「作るのは軍ではない」
彼は紙を卓に置いた。
「予算の項目を立てるのは、宮廷の会計だ。そこの上に、あの男が座っている」
*
二十人は三日後に発った。
朝の霧が晴れないうちに、隊は列を作って街道を北へ折れていった。関の縄の内側で、クラウスが黙って見ていた。二十人が抜けた縄の内側は、急に広く見えた。ミラは走り回って代わりに立てる人を探していたが、院の中に代わりはいない。看る手はもともと足りていない。
関に残ったのは、村から来た者が四人と、院から出した者が二人。合わせて六人になった。
六人で、道を一本、見ることになる。
「エルナ様」
ミラが息を切らして戻ってきた。
「洗い場の人たちが、順番で出てもいいって」
「洗い場の手が減ります」
「減ります」
「……減ったら、布が回りません」
エルナは言った。ミラは唇を噛んだ。
この子は数えられるようになった。数えられるようになると、駄目なものが駄目だと分かってしまう。分からなかった頃は、走れば何とかなると思っていられた。走っても届かない場所があると知ることが、大人になるということなら、エルナはこの子をそこへ連れてきた人だった。
*
その夜、エルナは別の帳面を開いた。ケルンから借りた三十年ぶんの写しだった。三十年前の疫の年から順に、薬種がどこへいくらで動いたかが並んでいる。彼女は最初、それを薬の記録として読んでいた。
今度は金として読んだ。同じ列が、別の意味を持ちはじめた。樽の数は薬の量ではなく、動いた額になった。名は患者ではなく、払い手になった。
入った金がどこへ出たかは、この帳面には書いていない。ケルンの商いはそこで終わるからだ。だが出た先の名は書いてある。ダーレム家。ダーレム家。三十年のあいだ、その五文字が繰り返し出てくる。
エルナは紙を出して、年ごとの額を書き写しはじめた。
人を数える手つきと、同じ手つきだった。
*
鐘三つを過ぎて、戸が開いた。ラインハルトが立っていた。入ってこずに、戸口にいた。
「まだやるのか」
「はい」
「二十人は、戻らんぞ」
「知っています」
エルナは筆を止めなかった。
「戻らないものを数えても仕方がありません。……いま数えているのは、出て行った先です」
彼は少し入ってきた。卓の端に指をついて、写しの列を見た。
「金か」
「はい」
「読めるのか」
「読めません」
エルナは正直に言った。
「読めないので、並べています。並べると、そのうち形が見えます。……祖母も、そうしました」
*
ラインハルトは黙って立っていた。それから、短く言った。
「すまん」
エルナは筆を止めた。
止めて、顔を上げた。この人が謝るのを、彼女は一度も聞いたことがなかった。手帳を開いた夜でさえ、この人は謝らなかった。百四十三の名を読み上げて、それでも謝罪の言葉は一度も使わなかった。
「謝らないでください」
「だが」
「謝らないでください」
エルナは繰り返した。
「あなたが謝ると、私があなたに何かをさせた人になります。二十人は、あなたが出してくれたものです。出してくれたものを取り上げられて、なぜあなたが謝るんですか」
ラインハルトは何も言わなかった。一拍あった。この人のいつもの一拍だった。
「……そうか」
「はい」
「お前は」
彼は言いかけて、やめた。やめてから、卓の端の湯呑みを取って、飲んだ。冷めていた。冷めているのを承知で飲んだのが、エルナには分かった。
*
翌朝、ハンナが院長室の前に立っていた。エルナが通りかかると、ハンナは振り返った。いつもの顔だった。伝法で、少し面倒くさそうな顔だった。
「あんた。ちょっといいかい」
「はい」
「休みをもらうよ」
エルナは足を止めた。
「三日か、四日だ。院長には言った」
「……ハンナさん」
「なんだい」
「休まれるのを、私は、見たことがありません」
ハンナは肩をすくめた。
「三十年、休まなかったからね」
彼女はそう言って、廊下を歩いていった。桶を持っていなかった。手ぶらのハンナを見るのも、エルナは初めてだった。
お読みいただき、ありがとうございます。
壊しにかかる手は、書式でした。厚い紙でも赤い蝋でもなく、ただの一枚です。関を置けという裁定は出ましたが、置いた関を養えとは書かれていませんでした。養う金は施療院の予算で、その予算を握っているのは、一人しかいません。
この回で、ラインハルトが初めて、止められない、と言います。筆頭医の前に立ち、権威の前に立ち、検分の場に手帳を持って立った人が、紙一枚に負けます。そして、謝ります。手帳を開いたあの夜でさえ、この人は謝りませんでした。
エルナは、受け取りません。守られる関係から、並んで無力である関係へ。二人は、そういう場所に来ました。
最後にハンナが、休みを取ります。三十年、一日も休まなかった人です。




