第40話 切られた駒
北の四十一人のうち、十日目に立って歩いたのは三十四人だった。
死んだのは四人。残る三人は起き上がれないまま、それでも熱は下がっている。
東の一角の斑の病は、九人が三人になった。関は動いている。村から戻る者はもう出ていない。
エルナは十日ぶんの数を並べて、二本の列がどちらも細くなったのを確かめた。北の列と、疫の列だ。二つを同時に回すのは初めてで、途中で何度も、どちらかを落とすと思った。落ちなかったのは段取りが良かったからではない。一人一組で、誰も倒れなかったからだ。運が良かっただけだと、彼女は帳面の端に書いた。
「回りましたね」
ハンナが横から覗き込んだ。
「回ったねえ。あんた、一人一組で回しきったよ」
「破った手順です」
「破って、回したんだ」
ハンナは帳面を閉じた。
「祖母さんも、そうしたと思うよ」
エルナは顔を上げた。ハンナはもう背を向けて、桶を持って歩き出していた。
*
ケラーの居場所を見つけてきたのはミラだった。
「洗い場のおばさんの、旦那さんの弟が、宿を持ってるんです。西の門の外の」
この子は、こういうときにだけ本領を出す。
「そこに、去年の秋からいるって。お医者だったって聞いてるけど、誰も診てもらってないって」
「一人でですか」
「一人です」
ミラは少し口ごもった。
「エルナ様。あの人、いい人じゃないですよ」
「知っています」
「……はい」
*
門を出るとき、兵が一人、黙ってエルナの三歩うしろについた。名も告げず、用も言わない。坂を上がるあいだ、その男は一度も声をかけなかった。
誰が寄越したのかは、聞かなかった。聞けば、寄越した人が、寄越したと認めなければならなくなる。
西の門の外は坂だった。宿は坂の途中にあって、看板が半分落ちていた。落ちた側の字が読めない。残った側には宿の名らしいものが彫ってあったが、そこも雨で潰れていた。
二階の突き当たりの部屋だと言われた。階段は踏むたびに鳴った。戸を叩くと、しばらくして開いた。
ケラーは痩せていた。白衣を着ていた頃の恰幅は無くなり、頬の肉が落ちて、目だけが同じだった。
「……お前か」
「ケラー様」
「その呼び方はやめろ」
戸を押さえた手は、そのままだった。
「様のつく職は、一つも残っておらん」
*
部屋には寝台と卓しか無かった。卓の上に薬研があった。使われた跡はなく、埃が薄く積もっている。宮廷の筆頭医は薬を自分で挽いたりしない。挽かないのに持っているということは、若い頃に挽いていたということだった。
エルナは立ったまま、写しを卓に置いた。訴えの文と、削られた欄と、評議に列した五人の名。
ケラーはそれを見た。しばらく見て、指で三十年前の年を撫でた。
「懐かしいな」
「覚えておられますか」
「忘れられるものか」
彼は椅子に腰を下ろした。
「あの年、この院に、婆さんが一人おった。……お前によく似た婆さんだ」
エルナは動かなかった。似ているという言葉を、この人の口から聞くとは思っていなかった。
「私は、四十だった」
彼は自分の手を見た。
「医師の三番目だ。まだ何者でもない。手が足りん年だった。運ばれてくる数が、寝台の数の三倍あった」
「祖母は、札を作りました」
「作った」
彼は頷いた。
「赤と青と黒だ。お前のと同じだ。……色まで同じだった」
*
ケラーは卓の木目を見ていた。
「私はあの札の色を見て、運ぶ順を変えた」
「変えて」
「一人、死なせた」
木目から目を離さずに、彼は続けた。
「青の札の男だった。少し待てるはずだった。待てなかった。……待てるかどうかを決めたのは私だ。婆さんではない。札でもない。私が、あの男を後ろに回した」
エルナは息を吸った。この人が青の札の意味を知っていたことに、いま初めて気づいた。
「それは」
「言い訳を聞きたいのか」
「いいえ」
エルナは言った。
「言い訳をなさらないのが、分かりましたから」
ケラーは初めてエルナを見た。
*
「三十年、私は魔法をかければ済むと言い続けた。……なぜだと思う」
「……分かりません」
「選ばんで済むからだ」
彼は手を卓に置いた。骨の浮いた手だった。
「魔法が万能なら、誰も後ろに回らん。誰も待たん。私は、あの青の札の男を二度と作らんで済む。……三十年、私はそれを信じておった。信じたかったのだ」
エルナは、この人の五十年が、いま一本の線になるのを見ていた。選別を下賎と呼んだ理由も、記録を焼こうとした理由も、頂に座り続けた理由も、全部、四十の年の一人から出ている。三十年かけて、この人は自分の一晩を世界のほうから消そうとしていた。魔法が万能なら、あの晩は無かったことになるからだ。
だが。
「ケラー様」
「様はよせ」
「後ろに回された人は、死にました」
エルナは言った。
「あなたが信じたいものを信じているあいだに、東の一角で人が死にました。伯爵様も死にました。……私は、あなたを許しません」
ケラーは笑った。掠れた、短い笑いだった。笑いというより、息が喉に引っかかっただけの音だった。
「許されると思っておらん」
*
エルナは写しを取って、外套の内に入れた。窓から入る光が坂の下の屋根に当たっていて、部屋の中だけが薄暗かった。この人はもうこの部屋から出ないのだろう、と思った。それは罰ではなく、ただの結果だった。
「一つだけ、お尋ねします」
「言え」
「訴えたのは、誰ですか」
部屋が静かになった。窓の外で、坂を下りる荷車の音がした。
ケラーは長いこと黙っていた。
「……お前は」
顔は上げなかった。
「その名を知って、どうする」
「分かりません」
「分からんのに聞くな」
「聞かないと、祖母が」
エルナは言葉を切った。切ってから、続けた。
「祖母が、負けたままです」
ケラーは目を閉じた。閉じたまま、しばらく動かなかった。それから、背を向けて言った。
「下働きの娘だ」
エルナの指が止まった。
「名は覚えとらん。四十七人おって、下働きの顔など誰も覚えん。……ただ」
彼は窓を見た。
「泣いておった。評議の外の廊下で、一人で立って、泣いておった」
エルナが会いに行ったのは、切られた駒のほうでした。宮廷医療の五十年をすべて失って、西の門の外の宿にいます。薬研には、埃が積もっています。
この回で、この人の五十年が一本の線になります。四十歳のとき、彼は祖母の札の色を見て、運ぶ順を変えました。青の札の男を後ろに回して、死なせています。それから三十年、彼は魔法をかければ済むと言い続けました。魔法が万能なら、誰も後ろに回らないからです。選別を下賎と呼んだ理由も、記録を焼こうとした理由も、全部そこから出ています。
それでもエルナは、許しません。理由が分かることと、許すことは、別です。
名簿の下働きの欄には、八人の名が並んでいました。




