↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
40/50

第40話 切られた駒

 北の四十一人のうち、十日目に立って歩いたのは三十四人だった。


 死んだのは四人。残る三人は起き上がれないまま、それでも熱は下がっている。


 東の一角の斑の病は、九人が三人になった。関は動いている。村から戻る者はもう出ていない。


 エルナは十日ぶんの数を並べて、二本の列がどちらも細くなったのを確かめた。北の列と、疫の列だ。二つを同時に回すのは初めてで、途中で何度も、どちらかを落とすと思った。落ちなかったのは段取りが良かったからではない。一人一組で、誰も倒れなかったからだ。運が良かっただけだと、彼女は帳面の端に書いた。


「回りましたね」


 ハンナが横から覗き込んだ。


「回ったねえ。あんた、一人一組で回しきったよ」


「破った手順です」


「破って、回したんだ」


 ハンナは帳面を閉じた。


「祖母さんも、そうしたと思うよ」


 エルナは顔を上げた。ハンナはもう背を向けて、桶を持って歩き出していた。


    *


 ケラーの居場所を見つけてきたのはミラだった。


「洗い場のおばさんの、旦那さんの弟が、宿を持ってるんです。西の門の外の」


 この子は、こういうときにだけ本領を出す。


「そこに、去年の秋からいるって。お医者だったって聞いてるけど、誰も診てもらってないって」


「一人でですか」


「一人です」


 ミラは少し口ごもった。


「エルナ様。あの人、いい人じゃないですよ」


「知っています」


「……はい」


    *


 門を出るとき、兵が一人、黙ってエルナの三歩うしろについた。名も告げず、用も言わない。坂を上がるあいだ、その男は一度も声をかけなかった。


 誰が寄越したのかは、聞かなかった。聞けば、寄越した人が、寄越したと認めなければならなくなる。


 西の門の外は坂だった。宿は坂の途中にあって、看板が半分落ちていた。落ちた側の字が読めない。残った側には宿の名らしいものが彫ってあったが、そこも雨で潰れていた。


 二階の突き当たりの部屋だと言われた。階段は踏むたびに鳴った。戸を叩くと、しばらくして開いた。


 ケラーは痩せていた。白衣を着ていた頃の恰幅は無くなり、頬の肉が落ちて、目だけが同じだった。


「……お前か」


「ケラー様」


「その呼び方はやめろ」


 戸を押さえた手は、そのままだった。


「様のつく職は、一つも残っておらん」


    *


 部屋には寝台と卓しか無かった。卓の上に薬研があった。使われた跡はなく、埃が薄く積もっている。宮廷の筆頭医は薬を自分で挽いたりしない。挽かないのに持っているということは、若い頃に挽いていたということだった。


 エルナは立ったまま、写しを卓に置いた。訴えの文と、削られた欄と、評議に列した五人の名。


 ケラーはそれを見た。しばらく見て、指で三十年前の年を撫でた。


「懐かしいな」


「覚えておられますか」


「忘れられるものか」


 彼は椅子に腰を下ろした。


「あの年、この院に、婆さんが一人おった。……お前によく似た婆さんだ」


 エルナは動かなかった。似ているという言葉を、この人の口から聞くとは思っていなかった。


「私は、四十だった」


 彼は自分の手を見た。


「医師の三番目だ。まだ何者でもない。手が足りん年だった。運ばれてくる数が、寝台の数の三倍あった」


「祖母は、札を作りました」


「作った」


 彼は頷いた。


「赤と青と黒だ。お前のと同じだ。……色まで同じだった」


    *


 ケラーは卓の木目を見ていた。


「私はあの札の色を見て、運ぶ順を変えた」


「変えて」


「一人、死なせた」


 木目から目を離さずに、彼は続けた。


「青の札の男だった。少し待てるはずだった。待てなかった。……待てるかどうかを決めたのは私だ。婆さんではない。札でもない。私が、あの男を後ろに回した」


 エルナは息を吸った。この人が青の札の意味を知っていたことに、いま初めて気づいた。


「それは」


「言い訳を聞きたいのか」


「いいえ」


 エルナは言った。


「言い訳をなさらないのが、分かりましたから」


 ケラーは初めてエルナを見た。


    *


「三十年、私は魔法をかければ済むと言い続けた。……なぜだと思う」


「……分かりません」


「選ばんで済むからだ」


 彼は手を卓に置いた。骨の浮いた手だった。


「魔法が万能なら、誰も後ろに回らん。誰も待たん。私は、あの青の札の男を二度と作らんで済む。……三十年、私はそれを信じておった。信じたかったのだ」


 エルナは、この人の五十年が、いま一本の線になるのを見ていた。選別を下賎と呼んだ理由も、記録を焼こうとした理由も、頂に座り続けた理由も、全部、四十の年の一人から出ている。三十年かけて、この人は自分の一晩を世界のほうから消そうとしていた。魔法が万能なら、あの晩は無かったことになるからだ。


 だが。


「ケラー様」


「様はよせ」


「後ろに回された人は、死にました」


 エルナは言った。


「あなたが信じたいものを信じているあいだに、東の一角で人が死にました。伯爵様も死にました。……私は、あなたを許しません」


 ケラーは笑った。掠れた、短い笑いだった。笑いというより、息が喉に引っかかっただけの音だった。


「許されると思っておらん」


    *


 エルナは写しを取って、外套の内に入れた。窓から入る光が坂の下の屋根に当たっていて、部屋の中だけが薄暗かった。この人はもうこの部屋から出ないのだろう、と思った。それは罰ではなく、ただの結果だった。


「一つだけ、お尋ねします」


「言え」


「訴えたのは、誰ですか」


 部屋が静かになった。窓の外で、坂を下りる荷車の音がした。


 ケラーは長いこと黙っていた。


「……お前は」


 顔は上げなかった。


「その名を知って、どうする」


「分かりません」


「分からんのに聞くな」


「聞かないと、祖母が」


 エルナは言葉を切った。切ってから、続けた。


「祖母が、負けたままです」


 ケラーは目を閉じた。閉じたまま、しばらく動かなかった。それから、背を向けて言った。


「下働きの娘だ」


 エルナの指が止まった。


「名は覚えとらん。四十七人おって、下働きの顔など誰も覚えん。……ただ」


 彼は窓を見た。


「泣いておった。評議の外の廊下で、一人で立って、泣いておった」

エルナが会いに行ったのは、切られた駒のほうでした。宮廷医療の五十年をすべて失って、西の門の外の宿にいます。薬研には、埃が積もっています。

この回で、この人の五十年が一本の線になります。四十歳のとき、彼は祖母の札の色を見て、運ぶ順を変えました。青の札の男を後ろに回して、死なせています。それから三十年、彼は魔法をかければ済むと言い続けました。魔法が万能なら、誰も後ろに回らないからです。選別を下賎と呼んだ理由も、記録を焼こうとした理由も、全部そこから出ています。

それでもエルナは、許しません。理由が分かることと、許すことは、別です。

名簿の下働きの欄には、八人の名が並んでいました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。