第39話 訴えあり
評議の控えは王宮の書庫にある。院の者が勝手に入れる場所ではない。入るには院長の署名が要った。
エルナは院長室の前で、一度立ち止まった。
この人に頼むということは、この人に「三十年前を調べています」と言うことだった。もし止めた人がこの人なら、頼んだ瞬間に相手へ知らせることになる。
彼女はそれを分かったうえで、扉を叩いた。知らせることになっても構わないと思った。知らせて動く人なら、動いたところが見える。動いたところが見えれば、それも数のうちだった。
*
テオドールは眼鏡を外して、しばらく紙を見ていた。
「三十年前の、評議の控え」
「はい」
「何を、探す」
「訴えです」
エルナは言った。
「祖母の帳面に、祖母以外の字で書き足しがありました。本日、訴えあり、と」
老人は眼鏡を卓に置いた。置く音が、思ったより大きかった。
「……そうか」
「院長先生」
「わしは知らん」
テオドールは言った。
「知らん、というのは、覚えておらんという意味ではない。あの頃わしは三十三で、評議に呼ばれる身分ではなかった。呼ばれる者が上に五人おった。……その五人が何を話したかを、わしは一度も聞いておらん」
彼は筆を取った。
「聞かなんだ、とも言える」
署名は短かった。彼はそれを渡すとき、エルナの目を見なかった。
*
王宮の書庫は寒かった。石の床が足の裏から熱を吸っていく。案内の役人は棚の番号だけ言って、あとは離れた席に座って本を読みはじめた。この人にとって、三十年前の紙を出すのは今日の仕事の一つでしかない。誰かの三十年が入っている棚も、番号で呼べば番号になる。
控えは年ごとに束ねられ、麻の紐で括られていた。紐は乾いていて、解くと粉のようなものが落ちた。エルナは三十年前の束を解いた。
評議は年に六度。疫の年は八度に増えていた。彼女は八度ぶんを順に読んだ。物資の割り当て、人の増減、門の修繕。読み進めるうちに、これは院の記録ではないと分かってきた。院に何を与え、何を与えないかを決めた側の記録だった。そして四度目の控えの三枚目に、それがあった。
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――当院の下働きに人を選ばしむるは、見捨つる順を定むるに同じ。
――重き者を先に、軽き者を後にと申すは、後の者に死ねと申すに等しからずや。
――かかる法、当院より除かるべし。
エルナは息を止めた。
訴えの文だった。祖母の手順を、名指しはせずに、根から否定している。書いた者は理屈で書いていない。怒りでも書いていない。理屈で書くなら数を出す。怒りで書くなら人の名を出す。この文にはどちらも無くて、代わりに情景があった。
――後の者に死ねと申すに等しからずや。
これは、見た人の言葉だった。実際に後回しにされた誰かを、見た人の。書いたのは訴えた本人ではないだろう。訴えを聞いた者が、聞いたとおりに書き取って、それらしい形に整えている。整えても、情景だけは削れなかったのだ。
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訴えの文の下に、訴人の欄があった。欄は一行しかなく、その一行が削られていた。
紙が薄くなっている。小刀で表を削って、上から書き直した跡だった。削られた字は読めず、長さも分からない。光にかざしても、繊維が起きているのが見えるだけだった。三十年前の誰かが、この一行だけを消すために刃物を持ってきている。
書き直された字は、五文字だった。
――下働き一同。
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エルナは、その五文字を長いこと見ていた。
寒い部屋だった。指先の感覚が無くなっていた。それでも彼女は動かなかった。
一人が訴えた。訴えた者の名が削られた。削って、一同と書かれた。
嘘は、一つも書かれていない。下働きが訴えたことは事実だ。その下働きが一人だったか八人だったかは、この紙のどこにも書いていない。書いていないから、嘘にならない。
――運び込まれて一日のうちに亡くなりし者、これを施療院の死者に数えず。
エルナは、あの達しの紙を思い出した。あれも嘘ではなかった。数えないと決めただけだった。決めただけで、死者は三割減った。
これも同じだ。
一人の声を一同と書き換えただけで、訴えは院の総意になった。総意になった訴えは、一人の女医師を追い出すのに十分な重さになる。
定義を変える。それだけで人が動く。
エルナは自分の膝の上で、指を握った。
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役人が咳をした。書庫を閉める刻だった。
「写しを取ってよろしいですか」
「三枚まで」
エルナは訴えの文と、訴人の欄と、評議に列した者の名の頁を写した。
列した者は五人だった。筆頭医。薬師の長。看護人の長。そして王宮からの立会が二人。
二人目の立会の名を、エルナは知っていた。
――ダーレム家名代 フェルディナント。
二十二の若者だった。
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外へ出ると、日が落ちかけていた。石畳が赤く光っている。
エルナは写しを外套の内に入れて、施療院への道を歩いた。夕方の風が石畳を撫でていて、市の帰りの荷車が何台も追い越していく。歩きながら、考えていたのは訴えの中身のことではなかった。
あの手だ。
名前を消して、一同と書く手。数えないと決めて、死者を減らす手。三十年の隔たりを越えて、まったく同じ形をしている。
偶然ではない。手口は人が持つものだ。持っている人が、同じなのだ。
施療院の門が見えてきた。門の内側で、ミラが誰かと話している。話し相手は、エルナが近づく前に行ってしまった。黒い外套の背中だった。
門をくぐると、ミラが言った。用は無い、と言って帰られました、と。何をしに来たのかは、ミラにも分からないようだった。門の柱のところに、しばらく立っていたそうだ。
エルナは足を止めて、外套の上から写しの厚みを押さえた。
「……名前を消す手を、私は、知っています」
声に出したのは、自分に言い聞かせるためだった。
知っている手は、防げる。
訴えの中身が出ました。理屈で書かれた文でも、怒りで書かれた文でもありません。実際に後回しにされた誰かを見た人の、言葉です。
そして訴人の欄が、削られていました。
ここでエルナが気づいたことが、この回の芯です。嘘は一つも書かれていません。下働きが訴えたのは事実で、それが何人だったかは紙のどこにも書かれていない。書かれていない以上、嘘だとは言えません。第一部でヴィクトルが出した達しと、まったく同じ形です。定義を変えるだけで、嘘をつかずに人が動く。
三十年の隔たりを越えて、同じ手が使われています。偶然ではありません。手口は、人が持つものです。
院長は署名をするとき、彼女の目を見ませんでした。




