第38話 三冊目の変わり目
ギルベルトは七冊を全部読んでいた。
徴発された癒し手は昼のあいだ寝台を回り、夜は交代で休む。彼は休む時間に読んでいた。エルナがそれに気づいたのは、東の一角の隅の椅子に彼が四日続けて座っているのを見たからだった。
名門の坊ちゃんと呼ばれた男が、蝋燭を一本だけ立てて、古い帳面に顔を近づけている。手は光を出す手だった。その手が、いまは頁の端を押さえているだけだった。
「一冊目から三冊目までは、病の記録だ」
彼は帳面を卓に並べた。
「日付。名。熱の出た日。斑の出た日。死んだ日か、下がった日。それだけだ。整っている。……気味が悪いほど整っている」
「四冊目からは」
「物だ」
ギルベルトは三冊目を開いた。
「四冊目から先は、薬種の記録しかない。いつ、どこから、いくらで入ったか。誰に渡ったか。……人の名がほとんど出てこない」
エルナは三冊目を覗き込んだ。祖母の字は小さくて、右上がりだった。癖のある止め方をする。書き急いだところで線が薄くなり、日付のところだけ濃くなる。エルナは自分の帳面の癖を思い出して、少しだけ似ていると思った。会ったこともない人と字が似ているというのは、妙な気分だった。
「変わり目は、四冊目の頭ではありません」
「そうだ」
彼は頁を繰った。
「三冊目の、途中だ」
*
その頁で、記録が切り替わっていた。上半分にはいつもどおりの病の記録が並んでいる。名と、熱の出た日と、斑の出た日。下半分から、数字の並びが変わっていた。同じ人の字で、同じ日のうちに変わっている。頁を割って線を引いたわけでもない。ただ、書くものが途中から別のものになっていた。
――薬種、樽一。銀六十。
――同、翌日。銀百八十。
エルナは指を止めた。指を止めてから、もう一度その二行を読んだ。読み違いではなかった。
「三倍です」
「一日でな」
ギルベルトは腕を組んだ。
「疫が出れば薬の値は上がる。上がるのは商いとして当たり前だ。……だが一日で三倍は、上がったんじゃない」
「上げた、ということですか」
「誰かが、上げた」
彼は言った。
「この婆さんは、その日に気づいたんだろう。人を数えていても、この数字は出てこない。物を数えないと出てこない」
*
エルナは三冊目の変わり目を、何度も読み返した。
祖母は人を数えるのをやめたのではなかった。人を数えるために、物を数えはじめたのだ。人が死ぬ理由が、人の側に無かったから。寝台の足りない夜も、手の足りない朝も、突き詰めれば樽の値で決まっていた。それを見た日に、この人は帳面の使い方を変えている。決めるのに、一日もかけていない。
――わたしは、数えた。だが、数えただけだった。
あの一行を、エルナは初めて別の意味で読んだ。祖母は数えるのをやめて負けたのではない。数え方を変えて、それでも負けたのだ。
「ギルベルトさん」
「なんだ」
「あなたは、これを読んで、何を思われましたか」
ギルベルトはしばらく黙っていた。
「……順番を変えたな、と思った」
彼は三冊目を閉じた。
「病を数える者が、金を数えはじめた。それは職を変えるようなものだ。……俺には、できん」
エルナは彼を見た。この男は謝らない。エルナも許していない。二人が交わすのは、いまも業務の言葉だけだった。それでも彼はいま、自分にできないことを、自分の口で言った。
「できないと分かるのは」
エルナは言った。
「読んだからです」
ギルベルトは何も言わずに、次の頁を繰った。
*
鐘二つが鳴った。癒し手の交代の刻で、ギルベルトは立ち上がって東の一角へ行った。エルナは残って三冊目を読み続けた。
しばらくして、後ろで戸が開いた。湯呑みが二つ、卓の端に置かれた。湯気が立っていた。
エルナは顔を上げなかった。誰が置いたかは、外套の裾の音で分かる。この人は歩き方に癖があって、右の踵だけが少し重い。北の戦線で受けた古い傷だと、ハンナがいつか言っていた。本人はそれについて一度も話したことがない。
「団長」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「飲め」
それだけだった。彼は向かいに座って、自分のぶんを飲んだ。エルナは頁を繰った。彼は何も聞かなかった。名簿のことも、封の内側のことも、彼女がここ数日ほとんど眠っていないことも。
聞かないでいてくれる人だ、と思った。
湯は薄い茶だった。院の炊事場でいちばん安いものだ。エルナはそれを半分飲んで、また頁に戻った。舌に残るのは湯の温度だけで、味はほとんど無かった。それでも喉を通ると、指の先まで少し戻ってくるものがある。
彼はまだ座っていた。飲み終えても、座っていた。
*
変わり目の頁を、もう一度読んだ。三度目だった。
三度目で、余白に気づいた。右の端に、細い字で何か書いてある。祖母の字ではなかった。祖母の字は右上がりで小さい。これは真っ直ぐで、少し大きい。誰かが書き足したものだった。
エルナはランプを引き寄せた。短い一行だった。
――本日、訴えあり。
*
エルナは動かなかった。訴え、という言葉が、この院で使われる場面は限られている。患者が医師を訴える。医師が院を訴える。あるいは、院の中の誰かが、院の中の誰かを。
――わたしを止めたのは、施療院の中にいた。
二つの行が、頭の中で重なった。
「どうした」
ラインハルトが言った。エルナは顔を上げた。この人は、こちらが動かなくなったときにだけ口を開く。
「団長」
「ああ」
「三十年前に、この院で、訴えがありました」
彼は湯呑みを置いた。
「誰が、誰を訴えた」
「……分かりません」
エルナは頁に手を置いた。
「でも、書いたのは祖母ではありません。祖母の帳面に、祖母以外の誰かが、書き足しています」
ラインハルトは目を細めた。
「その頁を、その誰かが見たということだ」
エルナは息を吸った。そのとおりだった。祖母の帳面を開いて、余白に書き足せる人間が、三十年前にこの院にいた。近くにいて、読める場所にいて、書いていい立場にいた誰かが。
お読みくださり、ありがとうございます。
ギルベルトが七冊を読み終えました。誰にも頼まれていません。休む時間を、全部これに使っていました。
祖母の記録は、三冊目の途中で、病の記録から物の記録に変わります。理由は単純でした。その日、薬の値が一日で三倍になったからです。祖母は数えるのをやめたのではなく、数え方を変えました。変えて、それでも負けました。
ラインハルトは湯を持ってきて、何も聞かずに座っています。名簿のことも、彼女がほとんど眠っていないことも聞きません。聞かないでいてくれる人です。
そして三度目に読んだとき、余白に書き足しが見つかりました。祖母の字では、ありません。
次回、その中身を追います。




