第37話 四十七人の名簿
名簿は年ごとに一冊だった。
表紙をめくると、いちばん上に院長の名があり、下へ降りるにつれて役が細かくなっていく。医師、薬師、看護人、下働き、門番、洗い場。最後の頁に炊事の女たちの名が並んでいた。
上の頁ほど字が大きく、下へ行くほど詰めて書かれている。
書いた人が、下の頁を書くのを面倒だと思っていたのが分かる字だった。
全部で四十七人だった。
エルナは紙を一枚出して、四十七の名を書き写した。写しながら、この作業に見覚えがあると思った。関の初日に、通った人を数えたときと同じ手つきだった。
数えれば、何かが出る。数えなければ、何も出ない。
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北の負傷兵は三日目に入っていた。三人が持たないと思われたうち、二人が朝を見た。一人は見なかった。エルナはその名を書いて、刻を書いて、誰が手を握っていたかを書いた。手を握っていたのは衛生兵の一人で、名を尋ねると、自分の名を言うのに少し時間がかかった。北から歩いてきた者は、みな一度、自分の名を忘れた顔をする。
書く仕事は増える一方だった。昼のあいだは名簿に触れない。触れる時間は、鐘二つを過ぎてからしかなかった。
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四十七人のうち、何人が生きているか。
それを調べる方法を、エルナは持っていなかった。三十年ぶんの死亡の記録はどこにもない。院を辞めた者の行き先も、辞めた年までしか書いていない。彼女にできるのは、名簿の名と、いま自分が知っている名を突き合わせることだけだった。
突き合わせは、思ったより早く終わった。
四十七のうち四十四は、聞いたこともない名だった。
残る三つが、知っている名だった。
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一つ目。
――テオドール 医師 三十三。
院長だった。三十年前は三十三で、まだ医師の一人にすぎない。名簿の順で言えば上から六番目で、この年の筆頭医は別の名だった。
エルナは指をその名に置いたまま、しばらく動かさなかった。
この人は箱を三十年預かった。蓋に手をかけて、やめた。読んでしまえば何かをせねばならなくなるから、せずに済ませたと言った。
――せずに済ませた人は、止めた人ではない。
そう思ってから、自分の思考を疑った。せずに済ませることと、止めることの境目はどこにあるのだろう。祖母が院を追われたとき、この人は三十三だった。三十三は、何かができる年だ。
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二つ目。
――エーミール・ケラー 医師 四十。
エルナは息を止めた。
のちに筆頭医になる男が、三十年前は四十の医師としてここにいた。院長より七つ上で、名簿の順では三番目にある。魔法をかければ済むと言い続け、選別を下賎と呼び、記録を焼こうとした男が、祖母と同じ建物の中にいた。
しかも彼は、のちにダーレム侯の子飼いになる。
線としては、いちばん通りがいい。四十の医師なら、評議に口を利く相手がいる。下働きの訴えを評議まで運ぶには、運べる立場の人間が要る。そして彼は三十年かけて頂に座り、最後に侯へ切られた。
通りがよすぎる、とも思った。通りのいい線ほど、途中で誰かが敷いたものだ。
*
三つ目。
エルナは頁を繰った。下働きの欄だった。八人並んでいる。上から順に読んでいって、五番目で止まった。
――ハンナ 下働き 二十一 西棟・夜番。
ランプの火が揺れた。
エルナはその一行を見た。西棟・夜番。
西棟は、疫の年に隔離をしなかったほうの棟だ。三十年前の疫でも同じ使われ方をしていたなら、そこは最も人が死んだ場所になる。夜番は、その棟に夜のあいだ一人で立つ役だった。
彼女は次の名へ進もうとした。進めなかった。
指が、その行から動かない。
*
なぜ動かないのかが分からなかった。ハンナがこの院に三十年いることは、みんな知っている。本人が何度も言っている。あんたが生まれる前からここにいる、と。
名簿にその名があるのは当たり前だった。当たり前のことを見つけただけだった。
それでも指が動かない。
戸の外で、床板が一度鳴った。誰かが立ち止まって、そのまま行った。足音は重かった。
しばらくして、エルナは戸口を見た。敷居の内側に、湯呑みが一つ置いてあった。湯気は、もう細い。
取りに行かなかった。取りに行けば、頁から指が離れる。離してしまえば、二度とこの行へ戻れない気がした。
湯呑みは、そのまま冷めていった。
エルナは目を閉じた。閉じると、いつかの声が耳の奥で立ち上がった。桶を置く音まで一緒に戻ってきた。
――あたしは、昔さ。あんたと同じことをしたんだよ。
あの夜、ハンナは桶を置いて、震える腕で言った。運ばれてきた男に、もう無理だと言ったのだと。手が足りなかったからだと。その男の女房が外で待っていたのだと。
――あれから三十年、選別って言葉が憎かった。
三十年。
エルナは目を開けた。目の前の表紙には、三十年前の年が書いてある。
*
彼女はランプを吹き消さずに、名簿を閉じた。閉じて、膝の上に置いたまま、しばらく物置の床に座っていた。
考えなければならないことがある。だが考えたくない。この二つが同時に起きるのを、エルナは初めて経験していた。
廊下で足音がした。軽い足音だった。
「エルナ様。こんなところにいた」
ミラがランプを持って覗き込んでいた。
「東の一角で、熱が上がった人がいます。四番の寝台の」
「行きます」
エルナは立ち上がった。名簿を棚に戻して、扉を閉めた。閉めてから、鍵をかけた。いままで鍵をかけたことのない部屋だった。
「エルナ様。その部屋、なにがあるんですか」
「古い帳面です」
「ふうん」
ミラは首を傾げた。
「エルナ様、古い帳面を読むときの顔、してました」
「どんな顔ですか」
「怒ってるみたいな顔です。……でも今日のは、ちょっと違いました」
エルナは足を止めた。
「どう違いましたか」
ミラは少し考えて、言った。
「怖がってるみたいでした」
三十年前、この院には四十七人いました。そのうち四十四人は、エルナの知らない名前です。残った三人が、いまも王都にいます。
院長。箱を三十年預かって、蓋に手をかけて、やめた人。
ケラー。のちに筆頭医になり、侯の子飼いになり、そして切られた人。線としては、いちばん通りがいい人です。通りがよすぎる、とエルナは思います。
そして、三人目。
彼女は三人目の名前のところで、指が動かなくなります。なぜ動かないのか、本人にも分かりません。その名前がそこにあるのは、当たり前のことなのに。
考えなければならないことがあるのに、考えたくない。この気持ちを味わうのは、初めてです。




