第36話 北から来る
夜が明けきる前に門の鐘が鳴った。三つ鳴って、途切れて、また三つ鳴った。
エルナは机に伏せていた顔を上げた。祖母の三枚を写した紙が、目の前で三十枚に増えている。
三つの鐘は荷ではない。人だ。
「ミラ」
「起きてます!」
隣の部屋から声が返ってきた。この子には鐘の数を数えて起きる癖がついている。
*
門の外に幌のない荷車が七台並んでいた。北の戦線が崩れたという報せは昨夜のうちに届いていた。報せのほうが速かっただけで、人はもう動いていたのだ。
ラインハルトが先頭の車の脇に立っていた。外套の裾が泥で重くなっている。
「四十一だ」
彼は言った。数から先に言うのがこの人の癖だった。
「歩けるのが十二。担架が二十九。……道中で三人、置いてきた」
「置いてきたというのは」
「埋めてきた、という意味だ」
エルナは頷いた。頷いてから荷車の列を端まで見て数えた。四十一。院の東の一角にはまだ斑の病の者が九人いる。関から戻った者が六人。空いている寝台は二十二。
足りないのは寝台ではなかった。
「団長。看る手は」
「軍医が二人。衛生兵が四人。それだけだ」
「……こちらは十一人です」
言いながら、自分の声が乾いているのに気づいた。ひと月前ならこの数を聞いて頭が白くなっていた。いまは白くならない。白くならないぶん、はっきりと分かってしまう。
四十一と十七。どう並べ替えても手は足りない。
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朝のうちに札が貼られた。赤が九枚。青が二十四枚。黒が三枚。白は東の一角の九人に貼ったままだった。
ハンナが札束を持って寝台の間を歩いていく。この人の手つきは三十年ぶんの速さをしている。エルナはその背を見ながら、頭のなかで二つの列を同時に動かしていた。
北の負傷兵の列と、疫の後始末の列だ。
関はまだ動いている。村から戻る者を見て、青の札を貼って、三日置いて帰す。手順の写しは王国中の施療院へ配ることになっている。何百枚も要る。書き手はミラとエルナの二人しかいない。
「エルナ様。写しは、今日は」
「置いてください」
「でも、あと二百枚」
「今日は置いてください。……手が、こちらに要ります」
ミラは口を開きかけて、閉じた。閉じてから帳面を抱えて走っていった。この子は納得していないときほど早く走る。
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昼を過ぎて、手順の五番目が破れた。
――看る者を、必ず二人一組とせよ。
二人一組にできなかった。十一人で四十一と九を看るには、一人一組にするしかない。エルナはそれを自分で決めて、自分で書いた。
――本日、二人一組を解く。責は私にある。
書いてから、しばらく筆を置けなかった。祖母の五番目は「一人にすれば、その者が倒れたとき記録が途切れる」という理由つきの手順だった。理由を知ったうえで破っている。
「あんた」
ハンナが後ろに立っていた。
「今日、あたしは西を回るよ。あんたは東を見な」
「一人ずつになります」
「なるね」
ハンナは桶を持ち直した。
「三十年前も、そうだったんだろうさ」
エルナの手が止まった。
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ハンナはそのまま西棟へ行ってしまった。何気なく言ったのだ。三十年前という言葉は、この院ではもう誰の口からも出るようになっていた。院長が言い、ケルンが言い、ギルベルトが言った。誰が言ってもおかしくない言葉になっていた。
だからこそ、エルナは昨夜から誰にも何も言えずにいた。
封書の袋の内側に隠れていた一行が、頭から離れない。
――わたしを止めたのは、施療院の中にいた。
この院の中に、という意味だ。三十年前にここにいた誰かが、祖母を止めた。そしてその誰かは、生きているかもしれない。
口に出せば、この建物の中の誰かを疑うことになる。ハンナを、院長を、名前も知らない古い下働きを。エルナは疑うという行為に慣れていなかった。数えることは事実を確かめる仕事で、疑うことは事実の無い場所を歩く仕事だった。
*
夕方、広間で一度だけラインハルトと目が合った。
彼は担架の列の向こう側にいて、腕の傷を押さえている兵に何か短く言っていた。エルナは東の一角の入口で薬包を数えていた。距離があった。話しかけられる距離ではなかった。
目が合って、彼が顎を引いた。ほんの少しだった。
エルナも同じだけ顎を引いた。それで終わりだった。彼は担架のほうへ戻り、彼女は薬包の数に戻った。
言葉が要らなくなったのはいつからだろう、と思った。着任したばかりの頃は、この人が近くに来るたびに何か言わなければならない気がしていた。いまは何も言わずに済む。済んでしまうことが、少し怖い。
*
夜。死者は出なかった。北の四十一のうち、三人が朝まで持つかどうかという状態で残った。エルナは十一人の看る者に半刻ずつ休みを回し、自分は回さなかった。
書き終えたのは鐘二つの頃だった。
彼女はランプを持って廊下へ出た。廊下の突き当たりに物置がある。院の古い帳面が積んである部屋で、エルナが着任した頃には誰も鍵の場所を知らなかった。いまは彼女が持っている。
扉を開けると、埃と紙の匂いがした。
棚は六段あった。上の三段は近年の物資の控えで、下の三段が古い。エルナはランプを床に置いて、いちばん下の段の帳面を引き出した。表紙に年が書いてある。
三十年前の年ではなかった。二十八年前だった。
彼女はもう一冊引き出した。二十九年前。もう一冊。三十年前。
埃を払った。表紙に、こう書いてあった。
――当院在籍者名簿。
エルナはランプの芯を上げた。部屋が明るくなった。
彼女は床に座り込んで、その帳面を開いた。
第二部の後半が始まりました。
前回が大きな区切りだったばかりですが、この物語は休ませてくれません。北の戦線が崩れて、負傷兵が四十一人。疫の後始末は終わっていません。関も動いています。そして看る者は、十一人です。
ここでエルナが破ったのは、祖母の手順の五番目でした。理由まで書いてある一行を、理由を知ったうえで破っています。破って、そのことを自分で書きました。前回の答えが、さっそく試されています。
封の内側にあった一行を、彼女はまだ誰にも言えずにいます。口に出せば、この建物の誰かを疑うことになるからです。
数えることと、疑うこと。まったく違う仕事でした。彼女は、前者しか知りません。




