第35話 数えた人が、いた
封書の中身は、手紙ではなかった。
手順書だった。
*
三枚あった。一枚目の頭に、こう書いてあった。
――薬の来ぬときの手順。
エルナはランプを引き寄せた。
――一、水を絶やすな。飲めぬ者には布を湿して唇に当てよ。半刻ごと。
――二、冷やすは額に非ず。首と脇と股なり。ここに血の道が通る。
――三、寝かせる向きを半刻ごとに変えよ。同じ向きに置けば、肺が濁る。
――四、癒し手は三人に薄く配れ。夜の初めに配るべし。夜明けに配るは遅し。
――五、看る者を、必ず二人一組とせよ。一人にすれば、その者が倒れたとき、記録が途切れる。
エルナは五番目のところで手を止めた。
――記録が、途切れる。
この人は、そこまで考えていた。人が倒れることを織り込んでいた。倒れたときに何が失われるかを、失われたら何が起きるかを、数えていた。
クラウスが倒れて、関が止まった。あれは。
三十年前に、書いてあった。
*
三枚目の裏に、短く書き足しがあった。
――右の手順にて、三十年前、村の死者は、前の年の疫の半分に減じたり。
――されど、わたしはこれを制度に成しえず。
――ゆえに、次の年も、その次の年も、また同じだけ死ぬであろう。
エルナは唇を噛んだ。
*
彼女は立ち上がった。
「ミラ」
「はい!」
「これを、写して。二十枚。字は下手でいいです。読めれば構いません」
「二十枚!」
「関に十枚。村の家々に十枚。……ハンナさん、村へ配るのは、戸口の外から渡してください。中へは入らないで」
「言われなくてもやるよ」
「ギルベルトさん」
エルナは振り返った。
「癒し手を、三人一組に組み直します。夜の初めに、薄く。……できますか」
男は帳面を閉じた。
「できる」
*
その夜から、手順が回りはじめた。水を絶やさない。首と脇と股を冷やす。半刻ごとに向きを変える。癒し手は夜の初めに薄く配る。看る者は必ず二人。
薬は、一包も来なかった。三日目の朝、熱の下がった者が七人出た。四日目に、五人。
五日目に、九人。
*
死者も出た。村で四人。院で二人。
エルナは六人の名を書いた。刻を書いた。誰が手を握っていたかを書いた。書いて、閉じた。
六人だった。三十一人のうちの、六人だった。
六人の中に、クラウスはいなかった。
四日目の夜に熱が下がった。エルナが見に行ったとき、男は寝台の上で天井を睨んでいた。何か言おうとして、声が出ずに、口だけが動いた。
「まだ、寝ていてください」
「……荷が」
「荷は、置いていってくださいと申し上げました」
エルナは寝台の縁に手を置いた。
「あなたの道は、あなたが起きるまで、誰も引けません。……ですから、起きるまで、待ちます」
男は目を閉じた。閉じた目の縁から、水が一筋落ちた。
エルナは三十年前の帳面を開いた。同じ規模の村で、同じ病で、あの年に死んだ人の数が書いてある。
――十九。
エルナは長いこと、その数字を見ていた。
――半分以下だ。
嬉しくは、なかった。六人は、六人だった。名前があった。顔があった。ミラが戸口の外から声をかけた家の一軒は、四日目に返事が無くなった家だった。
だが。
――三十年前より、少ない。
この差は、誰かの才能ではなかった。書き残された紙のせいだった。
六日目に、ヒルダが村から来た。手に、写しの一枚を持っていた。汚れて、端が破れていた。何度も開かれた紙だった。
「あんた」
「はい」
「これを書いたのは、誰だい」
「私の、祖母です」
ヒルダは紙を見た。長いこと見ていた。
「……名前は」
「アガーテと申します」
女の手が止まった。
「アガーテ」
彼女は繰り返した。
「知ってるよ。……うちの婆さんが、言ってた。昔、村に来た人がいたって。偉い先生じゃなくて、ずっと数えて回ってた人がいたって」
ヒルダは紙を畳んだ。畳んで、懐に入れた。
「取り下げないよ」
「はい」
「けどね」
ヒルダは、そこで一度、口を結んだ。
「あんたの婆さんは、うちの村に、来てたよ」
*
薬が動いたのは、七日目だった。西の丘の四軒の屋敷から、薬種が売りに出された。
値は下がっていた。買い手がつかなかった。
病が退きはじめていたからだった。
*
ケルンが施療院へ来た。供は連れていなかった。今度は外套も着ていなかった。
彼は東の一角の入口に立って、寝台の列を見ていた。空いた寝台が増えていた。
「……余りました」
ケルンは寝台の列から目を離さなかった。
「六十包の四軒ぶんが、丸ごと」
エルナは黙っていた。
「私が握っておりましたのは、薬ではございませんでした」
ケルンは言った。
「必要でございました。……必要が消えれば、私の手には、何も残りません」
彼は懐から帳面を出した。卓に置いた。角の擦れた、使い込まれた帳面だった。
「お持ちください」
「これは」
「私の商いの記録です。いつ、どこで、いくらで、誰に。三十年ぶん、ございます」
エルナは帳面に手を伸ばして、止めた。
「ケルンさん」
「はい」
「これは、あなたを罰する道具になります」
「なりましょうな」
「私は、あなたを罰しません」
エルナは言った。
「借ります」
ケルンの目が動いた。
「……借りる」
「はい。写して、お返しします」
エルナは、目を伏せなかった。
「三十年前、あなたのお父上が同じ商いをなさったとき、それを書き残した人がいました。書いてあったから、私たちは今度、半分で済みました」
彼女は帳面に触れた。
「次の三十年のために、借ります」
ケルンは長いこと立っていた。やがて、深く頭を下げた。
商人の礼ではなかった。
*
王命の検分が開かれたのは、その三日後だった。罪を問う場ではなかった。数を確かめる場だった。
エルナは広間の中央に立った。
「南の街道筋、六つの村。熱を出した者、百四十七。……亡くなった者、二十二」
彼女は読み上げた。
「三十年前、同じ村々で亡くなった者は、五十八でございます」
広間がざわめいた。
「その差は、何によるか」
検分の長が問うた。エルナは三枚の紙を掲げた。
「これによります」
「それは」
「三十年前に、この院にいた者が、書き残した手順でございます」
彼女は言った。
「その者の名は、アガーテ・フォン・グラーフェン。……私の、祖母です」
壁際で、テオドール院長が顔を覆った。肩が震えていた。三十年、蓋に手をかけては、やめてきた老人だった。
「エルナ・フォン・グラーフェン」
長が言った。
「そなたの職は、決める職である。此度、そなたは何を決めたか」
エルナは息を吸った。
「街道を、一本だけ残すと決めました」
彼女は言った。
「関を置くと決めました。子どもを、村へ送ると決めました。癒し手を、三人に薄く配ると決めました。……そのどれも、間違っていたかもしれません」
広間が静まった。
「私は、決めます」
エルナは言った。
「決めたことを、全部、書きます」
「刻を書きます。数を書きます。誰を送ったかを書きます。足りなかった物を書きます。……そして、その日に何人死んだかを、書きます」
彼女は三枚の紙を見た。
「そうすれば」
声は、大きくなかった。
「三十年後の誰かが、私の間違いを、直せますから」
裁定は、その日のうちに下った。
――街道の関、これを常のものと定む。
――薬種の払い出し、その控えを施療院に納むべし。
――疫の年の手順、これを写して、王国の施療院すべてに配るべし。
*
広間を出るとき、豪奢な外套の男が待っていた。ダーレム侯だった。上機嫌ではなかった。だが、不機嫌でもなかった。
「お嬢さん」
「侯爵さま」
「ケルンは、切らんよ」
彼は言った。エルナは彼を見た。
「あれは良い商人だ。三十年、私の金庫を回してきた。……傷んでおらん」
侯は微笑んだ。
「駒を下げるのは、駒が傷んだときだ。今度は、傷んでおらん。ただ、負けただけだ」
彼は宝石だらけの指で、自分の胸を指した。
「負けたのは、私だ」
エルナの背に、冷たいものが走った。
「だから、次は」
侯は言った。
「私が出る」
彼は行ってしまった。
*
施療院に戻ったのは、日が落ちてからだった。
エルナは机に向かって、祖母の三枚を写していた。二十枚では足りなかった。王国中の施療院に配るには、何百枚も要る。
黒い外套の男が、隣に腰を下ろした。
「終わったな」
「終わっていません」
エルナは筆を止めずに言った。
「あの人が、出てきます」
「そうだな」
ラインハルトはランプの芯を少し上げた。部屋が明るくなった。
「エルナ」
「はい」
「お前は、婆さんに追いついた」
エルナは筆を止めた。
「……追いついて、いません」
「追いついた」
ラインハルトは、止まった筆のほうを見ていた。
「あの人は、書いて、去った。お前は、書いて、残っている」
エルナは彼を見た。この人は、いつも短い。短いから、たまに、こちらの防ぎようがない。
「団長」
「なんだ」
「私は、この職に就いてから、ずっと怖かったです」
彼女は言った。
「決めるのが、怖かったです。……いまも、怖いです」
ラインハルトは答えなかった。しばらく黙っていた。それから――一拍。いつもの、あの、一拍だった。
「俺は」
彼は言った。
「お前が怖がっているところに、いたい」
エルナの筆が、紙の上で止まった。
「……それは」
「言い直さん」
彼は言った。早口だった。この人が早口になったのは初めてだった。
「一度しか言わん。聞き逃したなら、それでいい」
「聞きました」
「そうか」
彼は窓の外を見た。
耳の縁が、赤かった。
*
その夜、エルナは祖母の三枚を写し終えた。最後の一枚を写し終えて、封書の袋を裏返した。
袋の内側に、字があった。いままで気づかなかった。三十年、封の内側に隠れていた一行だった。
エルナはランプを近づけた。細い字だった。急いで書いた字だった。
――わたしを止めたのは、施療院の中にいた。
*
その紙を持つ手が、動かなくなった。外で、ミラが駆けてくる足音がした。
「エルナ様! 北から、報せです! 戦線が――」
エルナは袋を伏せた。立ち上がった。窓の外に、月が出ていた。
ここまでお読みくださって、本当にありがとうございます。大きな区切りの回でした。
薬は、一包も来ませんでした。それでも死者は、三十年前の半分以下です。この差は、誰の才能でもありません。書き残された三枚の紙のせいです。祖母アガーテは負けて、この院を去りました。制度にはできませんでした。それでも、書いて、置いていきました。
ケルンが自分の帳面を持ってきます。三十年ぶんの商いの記録です。エルナはそれを、罰の道具にしませんでした。
そして彼女が、決める職としての答えを出します。決めて、書いて、三十年後の誰かに直させる。第一部の締めから、彼女はここまで来ました。
あの人も、一段だけ踏み込みました。早口でした。この人が早口になったのは、初めてです。
――ですが。侯は、今度はケルンを切りませんでした。祖母の封の内側には、三十年隠れていた一行があります。そして北の戦線が、崩れました。
長い夜は、まだこれからです。




