第34話 薬は、届かない
ミラは鐘四つの前に戻ってきた。泥だらけだった。息を切らしていた。それでも帳面には字が書いてあった。下手な字だった。
――村に残る者、百八十九。
――熱のある者、三十一。
――寝たきり、九。
――家の戸を開けられぬ家、四軒。
*
エルナはその数を写した。写しながら、指が冷たくなっていくのを感じた。
三十一。
いま院にある薬種で支えられるのは、十七人までだった。
*
四日目の朝、薬種市に荷が入った。入って、その日のうちに消えた。ミラが走って見てきた。
「エルナ様。全部、売れてました」
「誰に」
「西の丘のほうの、お屋敷です。四軒で、全部」
少女は息を切らしながら言った。
「一軒で、六十包」
六十包。その家に病人が六十人いるはずがなかった。
――囲っている。
値が上がると読んだ家が、先に買って抱え込んだのだ。抱え込めば、市に出る量が減る。減れば、また上がる。
誰も法を破っていなかった。
*
エルナはギルドの館へ行った。ケルンは奥にいた。今度は薬研を挽いていなかった。卓に向かって、帳面をつけていた。
「お嬢さん」
彼は顔を上げた。
「本日は、お渡しできるものがございません」
「一包も、ですか」
「一包も」
彼は言った。
「囲われております。私の手を離れました」
「値を、つけたのですね」
「つけました」
ケルンは即答した。
「侯爵さまのご指図です。……いいえ。指図に従ったのは私です。そこは、言い逃れをいたしません」
彼は帳面を閉じた。
「お嬢さんは先日、私の商いを記録なさいました。あれは効きました。効きましたので、私は、記録できぬ形にいたしました」
「囲えば、追えません」
「さようで」
彼は静かに言った。
「私が売った先は、四軒。そこから先は、私の帳面には載りません」
エルナは動かなかった。動けなかった。この人は正しい手順で、正しい商いをして、正しく彼女を封じた。罰する法は無かった。訴える先も無かった。
「ケルンさん」
「はい」
「村に、熱のある人が三十一人います」
「……存じております」
「支えられるのは、十七人です」
ケルンは目を伏せた。伏せて、しばらく上げなかった。
「お嬢さん」
彼は言った。
「私は、この商いを三十年やっております」
「はい」
「この三十年で、いちばん困ったのは」
彼は言った。
「値がつかぬときです。値がつかねば、誰も運びません。運ばぬものは、腐ります。……ですから私は、値をつけております。憎んでいただいて結構です」
「憎んでいません」
「なぜです」
「あなたが、目を伏せたからです」
*
帰り際、ケルンが呼び止めた。
「お嬢さん」
エルナは振り返った。
「四軒の名を、お知りになりたいですか」
「教えてくださるのですか」
「教えません」
彼は言った。
「教えれば、お嬢さんはそこへ行かれる。行けば、追い返されます。門前で三日立たされて、それだけです」
彼は帳面の背を撫でた。
「私は、あなたに三日を使わせたくない」
「なぜです」
「三日あれば」
ケルンは言った。
「あなたなら、別の手を見つけるからです」
*
施療院へ戻った。東の一角の前で、ハンナが待っていた。
「無かったのかい」
「ありませんでした」
「三十一人だろ」
「はい」
「十七までしか、もたないよ」
ハンナは言った。声が荒れていた。
「あたしらは、どうすりゃいい」
エルナは答えなかった。答えられなかった。
――数えました。
――数えて、足りません。
――足りないことが、分かっただけです。
彼女は帳面を抱えたまま立っていた。抱えているものが、初めて、ただの紙の束に思えた。
*
「薬は、要らん」
声は、寝台の間からした。ギルベルトだった。三日、ろくに寝ていない男の顔をしていた。彼は寝台の縁に腰かけて、一冊の帳面を膝に置いていた。
「……何を、言っているのですか」
「要らんと言った」
彼は言った。
「これに、書いてある」
*
エルナは近づいた。膝の上の帳面を見た。古い帳面だった。細い字だった。急いで書いた字だった。
祖母のものだった。
「……なぜ、それを」
「貸せと言ったろう」
ギルベルトは言った。
「東の一角の帳面だ。お前が置いていった束に、これが混ざっていた」
「読んだのですか」
「読んだ」
彼は頁を開いた。
「三十年前も、薬は来ていない。この婆さんは、来ない前提で書いている」
彼は指で行をなぞった。
「冷やす。飲ませる。寝かせる向きを変える。……それから、癒し手の使い方だ」
エルナは頁を覗き込んだ。
――癒し手は、治すに非ず。
――熱に耐うる力を、貸すものと心得よ。
――一人に注ぎ切るべからず。三人に薄く配れば、三人が夜を越ゆ。
――一人に注ぎ切れば、その一人は朝を見る。あとの二人は見ず。
エルナの息が止まった。
「これは」
「お前が俺に言ったことだ」
ギルベルトは言った。
「支えるために使え、注ぎ切るな、と。……お前が考えたのだと思っていた」
「私は」
エルナは首を振った。
「私は、そこまで書いていません。三人に薄く配れば三人が夜を越えるという数は、私には出せません」
「出したのは、この婆さんだ」
彼は帳面を閉じた。
「三十年前に、数え終わっている」
部屋が静かになった。エルナは懐に手を入れた。封書があった。
――この院の、次の運営者へ。
三十年、誰も開けていない一通が、そこにあった。
*
ハンナが息を呑んだ。
「あんた」
「はい」
「開けるのかい」
「開けます」
エルナは封蝋に爪をかけた。
*
外で鐘が鳴った。夜の鐘だった。村では、いま、三十一人が熱を出している。十七人ぶんの薬しか無い。夜は、これから、いちばん冷える。
封蝋が、割れた。
この部で、いちばん深いところです。
ケルンが値をつけました。囲い込みが起きて、薬は四軒の屋敷に消えます。彼は法を一つも破っていません。それどころか、エルナの手を正確に読んで、記録できない形に商いを組み替えました。前の回で彼女が勝った手が、そのまま封じられています。
数えました。数えて、足りませんでした。足りないことが分かっただけでした。抱えている帳面が、ただの紙の束に思える――第一部から積み上げてきたものが、ここで一度、底を打ちます。
そこで口を開くのが、よりによって、あの男です。彼が読んでいたのは、祖母の帳面でした。
封蝋が割れました。次回、大きな区切りです。




