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第33話 運ぶ者が倒れる

 クラウスが倒れたのは、関の三度目の朝だった。


 荷を降ろしている途中だった。膝から落ちた。誰かが名を呼んだ。エルナが土手を駆け降りたときには、男は板の上に横たえられていた。


 襟を開いた。


 斑が出ていた。


    *


「東の一角へ」


 エルナは言った。声は落ち着いていた。落ち着かせた、というほうが正しかった。


「札は赤。運ぶのは二人。触った手は、井戸で洗ってから戻ってください」


「エルナ様」


 ミラの声が細かった。


「クラウスさん、昨日も一昨日も、五往復してました」


「知っています」


 エルナは言った。


「数えていましたから」


    *


 東の一角へ運ぶ途中で、クラウスが一度、目を開けた。板の上から、エルナの袖を掴んだ。力は無かった。


「……荷が」


「荷は、置いていってください」


「明日、五往復の約束で」


「約束は、私が引き受けます」


 エルナは彼の手を板に戻した。


「あなたは、いま、運ばれる側です。運ばれる側の仕事は、寝ていることだけです」


 男は何か言おうとして、言えずに、目を閉じた。


    *


 その日、関が止まった。止まった理由は簡単だった。中の道を村から関まで荷を引ける者が、クラウス一人だったからだ。


 村の男たちは石工が多かった。荷駄の道を知らなかった。夜の坂も、雨で崩れる場所も、水の出る位置も知らなかった。


 道を知っている者が、寝ていた。


 エルナは関の帳面を開いた。開いて、閉じた。


 ――止まる。


 人が一人倒れただけで、止まる。


 彼女はこの数月、段取りというものを組み続けてきた。順番を作り、線を引き、札を配った。そのどれもが、人の上に載っていた。人が動くから回っていた。


 紙の上では、それが見えなかった。


    *


 夕方、村の側から報せが来た。列が伸びていた。


 昨日通れなかった者が今日も並び、今日の者がその後ろに並んだ。屋根の下に入りきらなかった。雨は降っていなかったが、日が落ちれば冷える。


 熱のある者が、冷える場所で、待っている。


    *


「あたし、行きます」


 声がした。ミラだった。


 机の前に立っている。帳面を抱えたままだった。


「道、知ってます。あたし、クラウスさんに三回ついて行きました。水の出るとこも、崩れるとこも、教えてもらいました」


「ミラ」


「荷は引けません。でも、村まで走って、誰がどこにいるか聞いて、戻ってこられます」


 少女は言った。


「あたし、それだけは、誰よりも速いです」


 エルナは彼女を見た。十四だった。


 この子が施療院に来たのは十二のときだと聞いていた。廊下を走って、誰がどこで倒れたかを叫んで回っていた。エルナが最初に名前を覚えた子だった。エルナを最初に「様」と呼んだ子だった。


 ――行かせれば。


 斑の出ている村へ、この子を行かせれば。エルナの手が、机の縁を掴んでいた。


 ――貼るのとは、違う。


 札を貼るのは、目の前に横たわった人を見て決めることだった。もう倒れている人の、順番を決めることだった。


 これは、違った。立っている子を、倒れるかもしれない場所へ、こちらから送ることだった。


「エルナ様」


「……少し、待ちなさい」


「待ってる間に、外の人が冷えます」


 ミラは言った。澄んだ声だった。


「エルナ様が教えてくれました。冷えると、悪くなるって。夜のうちが、いちばん危ないって」


 エルナは目を閉じた。


 自分が言った言葉が、自分に返ってきた。


    *


 戸口に影が立った。ラインハルトだった。彼は部屋に入ってこなかった。戸枠に肩を預けて、二人を見ていた。


「団長」


 エルナは言った。縋るような声になったことに、言ってから気づいた。


「軍の兵を、村へ入れることは」


「できん」


 彼は即答した。


「王の裁可が要る。関の外の警固までだ。……申請はしてある。返事は来ていない」


「では」


「エルナ」


 彼は名を呼んだ。二度目だった。


「お前が決めろ」


「……私が」


「お前の職だ。俺の職ではない」


 彼は言った。声は冷たくなかった。冷たくないぶん、逃げ場が無かった。


「だが」


 彼は戸枠から背を離した。


「決めたら、俺が連れて行く」


 エルナは顔を上げた。


「団長は、村には」


「関の外までだ。そこから先は入れん。……だが、関の外までなら、俺の権限で行ける」


 彼はミラを見た。


「戻る刻を決めろ。過ぎたら、俺が迎えに出る」


 エルナは息を吸った。吸って、吐いた。それから帳面を開いて、筆を取った。


「ミラ・記録の職」


 彼女は書きながら言った。


「本日、日の落ちる前に村へ発つ。用は、村に残る者の数と、熱のある者の位置を聞き取ること。荷は持たない。人には触れない。戸口の外から声で聞く」


「はい」


「鐘四つ。それを過ぎたら、聞き取りの途中でも、戻ること」


「はい!」


「それから」


 エルナは筆を止めた。


「行かせたのは、私です。……これも、書きます」


 ミラは目を丸くした。それから笑った。


「エルナ様。あたし、帰ってきますよ」


「はい」


「だって、帰ってこなかったら、その帳面、エルナ様がずっと持ってなきゃいけないでしょ」


 少女は帳面を机に置いた。


「持たせません」


    *


 日が傾くころ、二人は門を出た。


 黒い外套と、小さい影が、街道を下っていった。


    *


 ハンナが横に来た。何も言わずに、しばらくエルナと並んで立っていた。


「あんたの婆さんもさ」


 やがて、彼女は言った。


「こうやって、誰かを、送り出したのかね」


「……分かりません」


「あたしは、送り出す側になったことがないよ」


 ハンナは言った。


「三十年、送り出される側だった。楽だったんだね、あれは」


    *


 鐘が鳴った。一つ。エルナは門の柱に手をついて、街道の暗がりを見ていた。

クラウスが倒れました。それだけで、関が止まります。線を引いても、札を作っても、屋根を葺いても、道を知っている人が一人しかいなければ、その人が寝た日に全部が止まる。紙の上では、見えなかったことです。

そしてミラが、行きますと言いました。十四です。第一部の第二話から、走り続けている子です。

第一部のエルナは、目の前に横たわった人の順番を決めていました。この回で彼女がしたのは、立っている子を、倒れるかもしれない場所へ、こちらから送ることです。まったく別の重さでした。

あの人は、代わりに決めてくれません。彼女の職を、奪わない人です。

次回、薬が届きません。

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