第32話 三十年前と同じ形
箱を開けたのは、雨の夜だった。
関の仕事が早く終わった。人の列が雨で細ったからだった。エルナは部屋に戻って、隅に置いたままの木の箱を、机の上に載せた。
古い箱だった。留め金が錆びていた。
*
戸が鳴った。振り返ると、ラインハルトが立っていた。外套が濡れていた。
「開けるのか」
「……はい」
「そうか」
彼は入ってきて、壁際の椅子に座った。それだけだった。何も言わないし、何も聞かない。
エルナは彼を見た。
「団長」
「言うな」
彼は言った。
「一人で開けるものではない。それだけだ」
*
エルナは留め金を外し、蓋を持ち上げた。紙の匂いがした。古い紙の、乾いた匂い。
中には、帳面が七冊入っていた。
いちばん上の一冊を取って、開いた。字があった。
――細い字だった。整ってはいなかった。急いで書いた字だった。刻が書いてあった。名が書いてあった。熱の高さが書いてあった。誰が水をやったかが書いてあった。
エルナの指が止まった。
――これは。
台帳だった。自分がつけているものと、同じ形をしていた。
誰にも教わらずに始めたと思っていた。誰もやっていないから始めたのだと思っていた。この院で自分だけが数えているのだと、ずっと、そう思っていた。
三十年前に。
同じ形の帳面をつけていた人が。
いた。
エルナは頁を繰った。繰る手が震えていた。
――七の刻、南より三名。母子。熱。
――胸に赤き斑。真ん中白く、輪をなす。
彼女は息を止めた。
輪をなす。
院長が言ったのと同じ言葉だった。
「見ろ」
ラインハルトが横に来ていた。いつの間に立ち上がったのか分からなかった。彼は帳面の縁を指した。
頁の端に、小さな印がついていた。赤。青。黒。白。色の札だった。
「……これも」
エルナは呟いた。
「これも、同じです」
*
三冊目の途中から、内容が変わった。病の記録ではなくなった。物の記録になっていた。
――薬種、入らず。
――ギルドの元締めに掛け合う。断らる。先に納めし家より渡すが筋、と。
――先に納めし家、七軒。いずれも西の丘の館なり。
エルナは口を押さえた。
次の頁に、名前があった。薬種商の名だった。
――ケルン。
*
エルナは帳面を落としかけた。膝が力を失った。ラインハルトの手が背中に回って、椅子へ座らせた。
「……父です」
彼女は言った。
「あの人の、父です。あの人が、そう言いました。この王都で熱が流行った年に亡くなったと」
「三十年前だな」
「三十年前です」
――同じ病。
――同じ商い。
――同じ、断りかた。
エルナは膝の上で拳を握った。これは繰り返しではなかった。繰り返しなら、忘れられていたということだ。だが記録は残っている。ここに、ある。
誰も、読まなかっただけだ。
*
最後の一冊は、途中で終わっていた。書きかけの頁があった。その次からは、白紙だった。最後に書かれた行を、エルナは声に出して読んだ。
「わたしは、数えた」
声が掠れた。
「……だが、数えただけだった」
部屋が静かになった。雨の音だけがする。
エルナは白紙の頁を長いこと見ていた。
――負けたんだ。
この人は、数えて、それでも負けたのだ。物が来なかったから。金が無かったから。院の外に立っている力に、届かなかったから。
だから、この院を去った。
「エルナ」
ラインハルトが言った。
「お前の婆さんは、負けたわけではない」
「……負けています」
「負けた者は、帳面を残さん」
彼は言った。
「残すのは、次に渡す気がある奴だけだ」
エルナは彼を見上げた。
この人が、いつか自分の手帳を開いたときのことを思い出した。あの検分の広間で、この人は救えなかった名を一つずつ読み上げた。悔いるために数えた帳面だと、そう言った。
いま、同じ人が、祖母の帳面を見ている。
――この人は、負けた者の帳面を、たくさん見てきたんだ。
だから、分かるのだ。
*
戸が半分ほど開いた。テオドール院長が立っていた。入ってこなかった。敷居の外に立って、机の上の帳面を見ていた。老いた目が濡れていた。
「院長先生」
「……開けたか」
「開けました」
老人は敷居を跨がなかった。跨がずに、そこから言った。
「わしは、あれを読んでおらん」
「三十年、ですか」
「三十年だ」
彼は言った。
「預かった日に、一度だけ、蓋に手をかけた。かけて、やめた。……読んでしまえば、わしは、何かをせねばならんようになる」
彼は目を伏せた。
「せずに、済ませたのだ。……三十年」
エルナは何も言えなかった。この老人が、この院で唯一、自分を庇い続けてくれた人だった。その人が、いま、敷居の外に立って動けずにいる。
「院長先生。お入りください」
「いや」
テオドールは首を振った。
「今日は、いい」
戸が閉まった。
*
箱の底に、まだ何かあった。エルナは七冊を取り出した。
底板の上に、封をした紙が一通、置いてあった。封蝋は割れていなかった。三十年、誰も開けていなかった。
エルナは封書を取り上げた。宛名があった。
――エルナへ、ではなかった。
そこには、こう書いてあった。
――この院の、次の運営者へ。
エルナは息を吸った。吸って、吐けなかった。
この人は、孫が生まれることを知らなかった。孫が適性ゼロで生まれることも、家を追われることも、この院に来ることも、知らなかった。
知らないまま。いつか来るであろう、誰かに宛てて。
書いていた。
*
廊下を走る足音がした。戸が叩かれた。
「エルナ様!」
ミラの声だった。
「関から使いです! 夜のうちに、四十人、並んだって!」
エルナは立ち上がった。封書を懐に入れた。
開けなかった。
*
――いまは、まだ。
彼女は外套を掴んだ。
――いまは、まだ、開けない。
お読みいただき、ありがとうございます。三十年ぶりに、箱が開きました。
中に入っていたのは、台帳でした。エルナが自分で始めたと思っていたもの、この院で自分だけがやっているのだと思っていたものと、まったく同じ形の帳面が、三十年前に存在していました。色の札まで同じです。
これは、歴史が繰り返したのではありません。記録はちゃんと残っていました。誰も読まなかっただけです。
封書の宛名は、エルナへではありませんでした。祖母は、孫が生まれることも知らずに、いつか来る誰かへ宛てて書いています。
まだ開けません。関に、四十人が並びました。




