第31話 戻ってきた男
王命が下りた。
王都および周辺に籍を置く治癒魔法士のうち、宮廷に属さぬ者を、期間を限って徴発する。配置は宮廷施療院の運営を司る職の指図による。
最後の一行を読んだとき、エルナは紙を二度読み返した。
――私が、配る。
*
翌朝、施療院の中庭に十九人が並んだ。
まちまちだった。年寄りもいる。若い娘もいる。旅装のままの者もいた。地方の治療所から馬で駆けてきた者たちだ。
名門の子弟は、一人もいなかった。
エルナは名簿を持って列の前に立った。
三人目で、手が止まった。
*
列の端に、その男が立っていた。外套は擦り切れ、靴には泥がついている。髪は伸びて、後ろで無造作に括ってあった。頬が痩けていた。
目が合った。ギルベルト・フォン・ローゼンハイムだった。
中庭が静かになった。誰かが息を呑んだ。二人の間に何があったかを知っている者が、この院には何人もいた。
エルナは名簿に目を落とした。
「ギルベルト・ローゼンハイム」
彼女は読み上げた。家名の「フォン」を読まなかったのは、名簿にそう書いてあったからだった。
「はい」
男は答えた。
それだけだった。
*
エルナは配置を告げた。
「東の一角。斑の出た者の区画です。三人の癒し手を置きます。あなたはその一人です」
「……承知した」
「魔法は、傷には使いません。この病に、傷はありませんので」
エルナは言った。
「熱で消耗した体を、支えるために使ってください。かけきらないでください。一人に注ぎ切ると、次の人に届きません」
ギルベルトの眉が動いた。
「……支える、だと」
「はい」
「治すな、と言うのか」
「治りません」
エルナは名簿を閉じた。
「この病は、治せません。持ちこたえた人が、生き延びます」
彼は何も言わなかった。言い返さなかった。昔なら、この一言で顔を赤くして、下賎な帳面がどうのと喚いていた男だった。
彼はただ、東の一角へ歩いていった。
*
その日の夕方、エルナは東の一角を見回った。ギルベルトは寝台の間にいた。
膝をついていた。老人の手を持ち上げ、手のひらに自分の手を重ねている。指のあいだから淡い光が漏れていた。細く、長く、絞るように。
彼は言われたとおりにやっていた。光が消えた。ギルベルトは立ち上がろうとして、よろけて、寝台の縁を掴んだ。
「……水を」
彼は言った。誰にでもなく言った。
ミラが駆けてきて、椀を渡す。彼は受け取って飲んだ。飲んで、それから老人を見た。
老人はまだ生きていた。
「おい」
彼はエルナに気づいた。
「この爺は、いつまで持つ」
「分かりません」
「分からんのか」
「はい」
エルナは言った。
「三日目に熱が下がる人がいます。下がらない人もいます。……見分ける方法を、私は持っていません」
ギルベルトは寝台の縁を掴んだまま黙った。やがて、低く言った。
「……治した後に、こんなに、あるのか」
エルナは彼を見た。彼はこちらを見ていなかった。老人の顔を見ていた。
「私は」
彼は言った。
「かけて、次へ行っていた。かけたら、終わりだと思っていた。……終わりではないのだな」
「はい」
「お前は、これを」
彼は寝台の列を見渡した。二十いくつの寝台が並んでいた。
「これを、ずっと、見ていたのか」
「見ていました」
エルナは言った。
「あなたが、次へ行ったあとを」
ギルベルトは何も答えなかった。謝らなかった。エルナも、許すと言わなかった。
二人はしばらく寝台の列を見ていた。それだけだった。それだけで、その日は終わった。
*
翌日、ハンナが東の一角から戻ってきて、盛大に舌打ちをした。
「あの男、寝てないよ」
「ギルベルトさんですか」
「ローゼンハイムの坊ちゃんだよ。夜通し光を出してた。三人ぶんの区画を一人で回ってさ」
彼女は前掛けで手を拭いた。
「昼に交代させようとしたら、断りやがった」
「なぜでしょう」
「知るもんかね」
ハンナは吐き捨てた。
「……ただ、ありゃあ、償いのつもりだね」
エルナは黙っていた。
「言っとくけどさ」
ハンナは彼女を見た。
「償いってのは、こっちが受け取ってやる筋合いのもんじゃないよ。あの男が勝手にやってるだけだ。あんたが背負う話じゃない」
「はい」
「無理をさせて構わないってことさ。癒し手が一人、余分に立ってる。それだけ数えときな」
*
三日後、彼はエルナの机の前に来た。
「帳面を貸せ」
「どの帳面ですか」
「東の一角のだ。刻と、熱と、札の色の書いてあるやつだ」
エルナは彼を見た。
「読めますか」
「読める」
彼は言った。
「読めるように、なった」
*
その夜。エルナが廊下を歩いていると、柱の陰から声がした。
「あの男は何だ」
ラインハルトが腕を組んで立っていた。
「徴発された癒し手です」
「そうではない」
「……元の、婚約者です」
「知っている」
彼は言った。
「知っていて、聞いた」
エルナは首をかしげた。
「団長。何かご不審が」
「無い」
「配置に問題がありましたら、直します」
「無いと言っている」
ラインハルトは腕を解いた。解いて、また組んだ。組み直した。
「……あの男は、東の一角だな」
「はい」
「お前は、どこにいる」
「全部の区画を回ります」
「そうか」
彼は言った。
「そうか」
*
彼は行ってしまった。足音が普段より重かった。エルナは廊下に立って、いまのは何だったのだろうと考えた。考えて、分からなかった。
物置の前を通りかかったとき、ハンナが薪を抱えて出てきた。ハンナはエルナの顔を見て、それから廊下の先を見て、それから盛大に鼻を鳴らした。
「あんた、本当に、そういうところだけは、からっきしだね」
「……何がでしょうか」
「なんでもないよ」
あの男が戻ってきました。名門から切られて、地方の治療所に流れて、いまは徴発の列の端に立っています。
書くにあたって、ひとつだけ決めていました。彼に謝らせないこと。エルナに許させないこと。この二人のあいだにあったことは、和解で片づく種類のものではありません。ですから二人は、寝台の列を並んで見ているだけです。それだけです。
そしてラインハルトが、あからさまに不機嫌です。腕を組んで、解いて、また組み直しています。エルナは気づいていません。ハンナは全部分かっています。
次回、三十年開かなかった箱を開けます。




