第30話 値のつく命
薬種商ギルドの館は、王都の東の通りにあった。
石造りだった。看板は小さかった。金持ちの家ほど看板は小さいのだと、いつか祖母が言っていた気がする。
エルナは一人で行った。
*
通されたのは奥の一室だった。ケルンは薬研の前に座っていた。自分で挽いていた。上着を脱いで、袖をまくり上げていた。
「お待ちしておりました」
彼は手を止めなかった。
「お座りください。この一挽きが済みましたら」
エルナは立ったまま待った。薬研の音がした。石が石をこする音だった。単調で、規則正しかった。
「荷を、止めておいでですね」
「止めておりません」
ケルンは言った。
「売っております。ただ、施療院には売っておりません」
「なぜ」
「お代を頂いておりませんので」
彼は薬研から手を離した。粉を紙に移して、包んで、その包みに小さく字を書いた。
「お嬢さん。私は意地悪をしているのではございません。順番を守っているだけです」
「存じております」
「では、なぜお越しに」
「買いに来たのではありません」
エルナは言った。
「見せに来ました」
*
彼女は懐から帳面を出した。卓に置いた。ケルンは手を止めた。
「これは」
「あなたの薬種が、いつ、どこで、いくらで、誰に渡ったかの記録です」
ケルンの手から包みが落ちた。拾わなかった。
「……なぜ、そのようなものを」
「関を作りましたので」
エルナは頁を開いた。
「街道を通る荷は、すべて台に置かれます。置かれた荷は、こちらの運び手が受け取ります。受け取るときに、数えます」
「数える」
「刻と、荷の数と、荷主の名。……病を止めるための記録です。誰と誰が触れたかを追うために、始めました」
彼女は頁を繰った。
「ですが、通った荷の中身は、薬種でした。半分以上が」
*
「三日前」
エルナは読み上げた。
「東の門から入った薬種、二十四包。荷主はケルン商会。行き先は、レーゲン伯爵家」
「……」
「二日前。三十包。行き先は、王都南の薬売り三軒。……この三軒の店先の値を、ミラに見てこさせました」
彼女は別の頁を開いた。
「仕入れの倍で出ておりました」
ケルンは黙っていた。長く黙っていた。やがて彼は落とした包みを拾った。埃を払って、卓の隅に置いた。
「お嬢さん」
「はい」
「それを、どうなさるおつもりですか」
「どうも」
エルナは言った。
「書いておくだけです」
「私を、脅しにいらしたのではないのですか」
「脅せません」
エルナは言った。
「私には権限がありません。ギルドを罰する力も、値を決める力もありません。あなたは何ひとつ法を破っておられない。……私にできるのは、書くことだけです」
「では、何のために」
「次の三十年のためです」
*
ケルンの目が、初めて動いた。三十年。
その言葉が出たとき、この男の顔から商いの表情が一瞬だけ剥がれた。エルナはそれを見た。見て、意味は分からなかった。
だが、覚えた。
「……お嬢さん」
ケルンは言った。
「商いというものは、記録されることを、いちばん嫌います」
「存じております」
「値というのは、誰も全体を見ていないから成り立つのです。誰がいくらで買ったか。誰がいくらで売ったか。それが全部並んでしまいますと」
彼は薬研を撫でた。
「値が、つかなくなる」
エルナは帳面を閉じた。閉じて、懐へ戻した。
「ケルンさん」
「はい」
「私は、あなたの商いを壊しに来たのではありません」
彼女は言った。
「あなたが値をつけているのが、命だからです」
*
その日の夕方、荷が動いた。施療院の裏門に、荷車が二台つけられた。熱を下げる薬種。膿を止める粉。塩。
付き添いも、送り状も無かった。ただ、荷の上に一枚の紙が置いてあった。
――代は、追って。
それだけだった。ハンナが荷を睨んだ。
「なんだい、これは」
「薬種です」
「そりゃ見りゃ分かるよ。誰が寄越したのさ」
「値を、つけられなくなった人です」
ハンナは荷車の縄を解きながら、しばらく黙っていた。壺をひとつ抱えて、重さを確かめた。
「……あんた、金も持たずに行ったろう」
「はい」
「よく帰ってこられたね」
「話をしただけです」
「話ねえ」
ハンナは壺を荷台に戻した。
「あたしは三十年ここにいるけどね。話で薬が来た日は、今日が初めてだよ」
*
帰り道、ラインハルトが待っていた。施療院の門の脇の、いつもの柱のところだった。
「片がついたか」
「三日ぶんだけ」
エルナは言った。
「三日ぶんの薬種が来ました。それだけです」
「金は」
「払っていません」
彼女は言った。
「一枚も」
ラインハルトが立ち止まった。振り返った。
「……金を持たずに、金を動かしたのか」
「数えただけです」
彼はしばらくエルナを見ていた。それから。
短く、笑った。
*
エルナは足を止めた。この人が笑うのを、初めて見た。
声は出ていなかった。ただ、口の端が上がって、目のあたりの硬さが少しほどけた。それだけだった。それだけなのに、まるで別の人のように見えた。
「団長」
「なんだ」
「……いま」
「なんでもない」
彼は先に歩き出した。耳の縁が赤かった。
*
同じ夜。ダーレム侯の館の窓に、灯りが点っていた。
ケルンは絨毯の上に立って報告を終えた。侯は葡萄酒の杯を回していた。回して、光にかざして、それから低く笑った。
「面白い」
「侯爵さま」
「金を持たぬ娘が、金を動かした。……あれは、鍵を持たずに蔵を開ける手を見つけたわけだ」
彼は杯を置いた。
「ケルン。荷を戻してよい。三日ぶんだったな」
「はい」
「では、四日目からだ」
侯は言った。
「値を、つけよう」
エルナは薬を買いませんでした。買えなかったからです。金も権限もありません。ギルドに手を出せる立場でもない。持っているのは、帳面だけです。
そこで彼女がやったのは、書くことでした。病を追うために始めた記録が、そのまま金の流れの記録になっていた。第一部で台帳が動かぬ証拠になったのと同じことを、今度は市場でやっています。
そして、あの人が笑いました。第一部を通して、一度も笑わなかった人です。声は出ていません。口の端が上がって、目のあたりが少しほどけただけです。それを見た彼女の足が止まるところまで、どうか読んでいただければ。
残りは、三日分しかありません。




