↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
30/50

第30話 値のつく命

 薬種商ギルドの館は、王都の東の通りにあった。


 石造りだった。看板は小さかった。金持ちの家ほど看板は小さいのだと、いつか祖母が言っていた気がする。


 エルナは一人で行った。


    *


 通されたのは奥の一室だった。ケルンは薬研の前に座っていた。自分で挽いていた。上着を脱いで、袖をまくり上げていた。


「お待ちしておりました」


 彼は手を止めなかった。


「お座りください。この一挽きが済みましたら」


 エルナは立ったまま待った。薬研の音がした。石が石をこする音だった。単調で、規則正しかった。


「荷を、止めておいでですね」


「止めておりません」


 ケルンは言った。


「売っております。ただ、施療院には売っておりません」


「なぜ」


「お代を頂いておりませんので」


 彼は薬研から手を離した。粉を紙に移して、包んで、その包みに小さく字を書いた。


「お嬢さん。私は意地悪をしているのではございません。順番を守っているだけです」


「存じております」


「では、なぜお越しに」


「買いに来たのではありません」


 エルナは言った。


「見せに来ました」


    *


 彼女は懐から帳面を出した。卓に置いた。ケルンは手を止めた。


「これは」


「あなたの薬種が、いつ、どこで、いくらで、誰に渡ったかの記録です」


 ケルンの手から包みが落ちた。拾わなかった。


「……なぜ、そのようなものを」


「関を作りましたので」


 エルナは頁を開いた。


「街道を通る荷は、すべて台に置かれます。置かれた荷は、こちらの運び手が受け取ります。受け取るときに、数えます」


「数える」


「刻と、荷の数と、荷主の名。……病を止めるための記録です。誰と誰が触れたかを追うために、始めました」


 彼女は頁を繰った。


「ですが、通った荷の中身は、薬種でした。半分以上が」


    *


「三日前」


 エルナは読み上げた。


「東の門から入った薬種、二十四包。荷主はケルン商会。行き先は、レーゲン伯爵家」


「……」


「二日前。三十包。行き先は、王都南の薬売り三軒。……この三軒の店先の値を、ミラに見てこさせました」


 彼女は別の頁を開いた。


「仕入れの倍で出ておりました」


 ケルンは黙っていた。長く黙っていた。やがて彼は落とした包みを拾った。埃を払って、卓の隅に置いた。


「お嬢さん」


「はい」


「それを、どうなさるおつもりですか」


「どうも」


 エルナは言った。


「書いておくだけです」


「私を、脅しにいらしたのではないのですか」


「脅せません」


 エルナは言った。


「私には権限がありません。ギルドを罰する力も、値を決める力もありません。あなたは何ひとつ法を破っておられない。……私にできるのは、書くことだけです」


「では、何のために」


「次の三十年のためです」


    *


 ケルンの目が、初めて動いた。三十年。


 その言葉が出たとき、この男の顔から商いの表情が一瞬だけ剥がれた。エルナはそれを見た。見て、意味は分からなかった。


 だが、覚えた。


「……お嬢さん」


 ケルンは言った。


「商いというものは、記録されることを、いちばん嫌います」


「存じております」


「値というのは、誰も全体を見ていないから成り立つのです。誰がいくらで買ったか。誰がいくらで売ったか。それが全部並んでしまいますと」


 彼は薬研を撫でた。


「値が、つかなくなる」


 エルナは帳面を閉じた。閉じて、懐へ戻した。


「ケルンさん」


「はい」


「私は、あなたの商いを壊しに来たのではありません」


 彼女は言った。


「あなたが値をつけているのが、命だからです」


    *


 その日の夕方、荷が動いた。施療院の裏門に、荷車が二台つけられた。熱を下げる薬種。膿を止める粉。塩。


 付き添いも、送り状も無かった。ただ、荷の上に一枚の紙が置いてあった。


 ――代は、追って。


 それだけだった。ハンナが荷を睨んだ。


「なんだい、これは」


「薬種です」


「そりゃ見りゃ分かるよ。誰が寄越したのさ」


「値を、つけられなくなった人です」


 ハンナは荷車の縄を解きながら、しばらく黙っていた。壺をひとつ抱えて、重さを確かめた。


「……あんた、金も持たずに行ったろう」


「はい」


「よく帰ってこられたね」


「話をしただけです」


「話ねえ」


 ハンナは壺を荷台に戻した。


「あたしは三十年ここにいるけどね。話で薬が来た日は、今日が初めてだよ」


    *


 帰り道、ラインハルトが待っていた。施療院の門の脇の、いつもの柱のところだった。


「片がついたか」


「三日ぶんだけ」


 エルナは言った。


「三日ぶんの薬種が来ました。それだけです」


「金は」


「払っていません」


 彼女は言った。


「一枚も」


 ラインハルトが立ち止まった。振り返った。


「……金を持たずに、金を動かしたのか」


「数えただけです」


 彼はしばらくエルナを見ていた。それから。


 短く、笑った。


    *


 エルナは足を止めた。この人が笑うのを、初めて見た。


 声は出ていなかった。ただ、口の端が上がって、目のあたりの硬さが少しほどけた。それだけだった。それだけなのに、まるで別の人のように見えた。


「団長」


「なんだ」


「……いま」


「なんでもない」


 彼は先に歩き出した。耳の縁が赤かった。


    *


 同じ夜。ダーレム侯の館の窓に、灯りが点っていた。


 ケルンは絨毯の上に立って報告を終えた。侯は葡萄酒の杯を回していた。回して、光にかざして、それから低く笑った。


「面白い」


「侯爵さま」


「金を持たぬ娘が、金を動かした。……あれは、鍵を持たずに蔵を開ける手を見つけたわけだ」


 彼は杯を置いた。


「ケルン。荷を戻してよい。三日ぶんだったな」


「はい」


「では、四日目からだ」


 侯は言った。


「値を、つけよう」

エルナは薬を買いませんでした。買えなかったからです。金も権限もありません。ギルドに手を出せる立場でもない。持っているのは、帳面だけです。

そこで彼女がやったのは、書くことでした。病を追うために始めた記録が、そのまま金の流れの記録になっていた。第一部で台帳が動かぬ証拠になったのと同じことを、今度は市場でやっています。

そして、あの人が笑いました。第一部を通して、一度も笑わなかった人です。声は出ていません。口の端が上がって、目のあたりが少しほどけただけです。それを見た彼女の足が止まるところまで、どうか読んでいただければ。

残りは、三日分しかありません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。