第29話 一本の道
中の道の、村から半里の場所に、それは建った。三日でできた。
柱を立て、板を張り、屋根を葺いた。井戸が近くにあったのが幸いした。石工の男たちが手を貸した。誰も賃金の話をしなかった。
「ここが、通る側の入口」
エルナは杭を打ちながら言った。
「ここが、待つ場所。ここが、洗い場。ここが、帰る側の出口」
彼女は縄を張った。人の通る道が、地面の上に、一本の線になった。
「入った人は、戻れません。戻る道は、こちらです」
クラウスが縄を見て、それから彼女を見た。
「……線を、引くんですか」
「引きます」
エルナは言った。
「線が無いと、人は混ざります。混ざったら、もう、分けられません」
*
札は四色にした。白。青。赤。黒。院で使っているものと同じだった。白は、通ってよい者。青は、少し待つ者。赤は、村へ返して床に就かせる者。黒は――
エルナは黒の札を作る手を止めた。しばらく止めていた。
それから、作った。
*
ハンナが村側に立つと言った。言い張った。
「あたしは、こっち側だ」
「ハンナさん。村側は、熱のある人に、いちばん近い場所です」
「知ってるよ」
「危ないです」
「あんたは、あたしを何だと思ってるんだい」
ハンナは前掛けの紐を結び直した。
「三十年、この仕事をしてきたんだ。……あんたが生まれる前から、あたしはここにいるんだよ」
エルナは頭を下げた。
「お願いします」
*
ミラは記録の職として来た。
王命で置かれた職だった。給金が出る職だった。少女は初めて自分の名で書かれた辞令を受け取って、三日間それを懐から出したり入れたりしていた。
「エルナ様。あたし、なにを書けばいいですか」
「刻と、人数と、札の色」
「それだけですか」
「それだけです」
エルナは言った。
「それだけを、一日も欠かさず」
ミラは帳面を抱えて、机の前に座った。座って、背筋を伸ばした。
誰も見ていないところで、彼女は一度だけ、自分の膝を叩いた。
*
軍が来たのは、その日の午後だった。ラインハルトが自分で連れてきた。二十人だった。
「俺の権限で出せるのは、これだけだ」
彼は言った。
「関を守る兵だ。医療の兵ではない。だが、力仕事はできる。並ばせることも、止めることもできる」
「二十人」
「それ以上は王の裁可がいる。……申請は出した。返事は、いつになるか分からん」
エルナは頭を下げた。
「二十人、いただきます」
彼は少し黙った。
「……いただきます、か」
「はい」
「お前は、俺に、ありがとうを言わんな」
エルナは顔を上げた。言われて初めて気づいた。
「……申し訳ありません」
「いや」
ラインハルトは短く言った。
「言わんでいい」
彼は関の屋根を見上げた。
「借りと貸しにしたくない。……そういうことだ」
エルナは彼の横顔を見た。
この人は言葉を惜しむ人だった。惜しんだ言葉の中身を、こちらが勝手に読み違えることを、たぶん恐れていない。恐れていないから、いつも短い。
だがいまのは。いまのは、読み違えようがなかった。エルナは自分の耳が熱くなるのを感じて、慌てて帳面を開いた。
開いた頁は、白紙だった。
*
関が動きはじめたのは、四日目の朝だった。最初に並んだのは、村の女たちだった。
列は静かだった。誰も押さないし、誰も割り込まなかった。ハンナが一人ずつ襟を開いて、額に手を当てて、札を渡した。白。白。白。青。
「青の人。そこの屋根の下で、鐘ひとつ待ってください」
「白の人。荷を、あの台に置いて。人は台の向こうへ行かないこと」
声が飛んだ。台の向こう側には、王都から来た運び手が待っていた。彼らは村の者に触れずに荷を受け取り、荷車へ積んだ。
列が、進んだ。エルナは少し離れた土手の上に立って、それを見ていた。
――回っている。
院の門でやっていたことが、街道で回っていた。同じ形をしていた。ただ、大きかった。
ミラの帳面に、数が積み上がっていった。その日、通った人は百六十四人。青の札は十一。赤は二人。
黒は、ゼロだった。エルナは黒の札の束を懐から出して、しばらく手のひらに載せていた。
使わずに済んだ日は、これで一日目だった。
――明日も、ゼロにする。
彼女は札を懐へ戻した。
*
夕方、村の側から一人の女が来た。列には並ばなかった。縄の外に立って、こちらを見ていた。
荒れた手をしていた。エルナは土手を降りた。
「ヒルダさん」
女は答えなかった。しばらく縄を見ていた。それから、ようやく口を開いた。
「……線を引くんだね」
「はい」
「うちの人のときも、線があった」
ヒルダは言った。
「あんたが引いた線の、外に、あたしは三日いたよ」
エルナは黙って立っていた。言い訳をしないと決めていた。それだけは、あの日から一度も変えていなかった。
「取り下げないよ」
ヒルダは言った。
「一生、取り下げない」
「はい」
「……けど」
女は縄の内側を見た。列を、屋根を、洗い場を、水を運ぶ子どもたちを。
「今度のは、外にいる者にも、水が来るんだね」
*
その夜、関に灯りが点った。エルナは机に向かって、その日の数を書き写していた。
馬の足音が近づいてきた。軍の使いだった。若い兵は馬から降りて、まっすぐエルナの前に来た。
「ご報告いたします」
「はい」
「王都の薬種市に、荷が入りませんでした」
エルナは筆を止めた。
「本日、一包も」
兵は言った。
「薬種商ギルドが、荷を止めております」
お読みくださって、ありがとうございます。書いていて、いちばん楽しいところでした。
線を引く。札を配る。洗い場を作る。触れさせない。第一部で施療院の門にやったことを、そのまま街道へ持っていっただけです。エルナは新しい力を手に入れていません。同じことを、大きくやりました。
ミラが自分の名で辞令を受け取りました。三日のあいだ、懐から出したり入れたりしていたそうです。誰も見ていないところで膝を叩いた、あの子のことを、どうか覚えていてください。
次回、薬が止まります。この回の気持ちよさが伝わっていましたら、評価をいただけるととても励みになります。




