第27話 買いに来た男
その男は、昼を過ぎてから来た。
馬車ではなかった。徒歩だった。供も連れていなかった。門番が呼び止めようとして、名を聞いて、それから慌てて背筋を伸ばした。
「ヨハン・ケルンと申します」
男は玄関の広間で頭を下げた。
四十半ばだろうか。上等だが地味な外套を着ていた。指に宝石は無かった。爪は短く切り揃えられていて、指の腹に薬研を挽く者の胼胝があった。
「薬種の商いをしております」
「宮廷施療院の運営を預かっております。エルナ・フォン・グラーフェンと申します」
「存じております」
ケルンは微笑んだ。
「王都で、いま、いちばん名の知れたお嬢さんですから」
*
エルナは彼を院長室へ通した。テオドールは席を外していた。ケルンは勧められた椅子に浅く腰かけた。背は伸びていた。商人の座り方だった。
「南の街道の斑を、聞き及んでおります」
「はい」
「熱を下げる薬種が要りますな。それから膿を止めるもの。汗を止めぬための塩も」
彼は指を三本立てた。
「うちにございます」
エルナは息を詰めた。
「お譲りいただけますか」
「もちろん」
ケルンは即答した。
「商いですから」
彼は懐から帳面を出した。角の擦れた、使い込まれた帳面だった。エルナのものとよく似ていた。彼はそれを卓に置いて開いた。
「ただ、順番がございまして」
「順番」
「はい」
ケルンは頁を指でなぞった。
「先にお代を納めた家から、先にお渡しする。商いの筋でございます。これを崩しますと、次から誰も先に払いません。先に払う者がいなくなれば、私は薬種を仕入れる元手を失います。元手を失えば、来年、王都に薬種は入りません」
彼は顔を上げた。
「私は、間違ったことを申しておりますか」
エルナは答えなかった。
答えられなかった。
*
彼女は自分の帳面を卓に置いた。開いた。二冊が並んだ。
ケルンの帳面には、家の名と金額が並んでいた。整った字だった。エルナの帳面には、人の名と札の色と刻が並んでいた。下手な字も混じっていた。ミラが書いた頁だった。
――また、二冊だ。
エルナは思った。あの検分の広間でも、卓に二冊が並んだ。あのときは、片方が嘘をついていた。
今度は。どちらも、嘘をついていない。
「私の順番は、重い人から、です」
エルナは言った。
「あなたの順番は、先に払った人から」
「さようで」
「重い人が、先に払っているとは限りません」
「限りませんな」
ケルンは頷いた。悪びれもしなかった。
「ですが、お嬢さん」
彼は言った。
「あなたの順番も、誰かを後ろに回しております。そこは、同じでしょう」
部屋の空気が止まった。エルナは口を開いて、閉じた。
その通りだった。彼女は札を貼る。赤を先にする。青を待たせる。待たせた者が待っている間に悪くなることを、彼女は知っている。知って、なお、貼っている。
――この人は。
――私と、同じ場所に立っている。
*
戸が開いた。ラインハルトが入ってきた。入ってきて、卓の二冊を見て、それからケルンを見た。
空気が変わった。軍医団長の目だ。戦場で人を数える目だった。
ケルンは椅子から立って、丁寧に頭を下げた。
「アシェンバッハ伯爵さま」
ラインハルトの手が動いた。腰の剣にではなかった。だが、動いた。
「団長」
エルナは言った。声は大きくなかった。
「ここは、私の職場です」
ラインハルトが止まった。彼はエルナを見た。
一拍あった。いつもの一拍だった。
それから、手を下ろした。
彼は壁際まで下がって、腕を組んだ。何も言わなかった。エルナはその一拍の意味を考えた。考えて、いまは考えている場合ではないと思い直した。
「ケルンさん」
「はい」
「施療院に、いま、お支払いできる金子はありません」
「存じております」
「王命の職を得ましたが、金庫の鍵は、まだ、私の手にありません」
「それも、存じております」
ケルンは帳面を閉じた。閉じる音が、やけに小さかった。
「ですから、こうして、私が参ったのです」
*
「ケルンさん」
エルナは言った。
「あなたは、なぜ、ご自分でいらしたのですか」
商人が顔を上げた。
「使いをよこせば済むお話です。ギルドの元締めが、供も連れずに施療院の門をくぐる理由が、分かりません」
ケルンは少し考えるように黙った。それから指の腹をこすった。薬研を挽く胼胝のある指だった。
「……父が、そうしておりました」
「お父上」
「同じ商いをしておりました。あれも、自分で歩く男でして。売る先を自分の目で見ておかねば値がつけられんと、そう申しまして」
彼は微笑んだ。その微笑みが、初めて少しだけ崩れた。
「私は、父ほど良い商人ではございません。ですが、歩くところだけは真似ております」
「お父上は、いま」
「亡くなりました」
ケルンは言った。
「ずいぶん前に。……この王都で、熱が流行った年でございます」
*
彼は立ち上がった。外套の裾を直して、扉の前で振り返った。
「お嬢さん。おひとつ、お伝えを預かっております」
エルナは顔を上げた。
「ダーレム侯爵さまが」
ケルンは言った。
「よろしくと」
*
扉が閉まった。足音が遠ざかった。エルナは椅子に座ったまま、二冊の帳面を見ていた。ひとつは自分のもの。ひとつは、いま持ち去られたもの。
――次は、君を、買いに来よう。
あの声が耳の奥で鳴った。豪奢な外套の男が、宝石だらけの指で、この帳面を指したのだった。
あれから、まだ、幾日も経っていなかった。
*
「エルナ」
壁際から声がした。ラインハルトが腕を組んだまま立っていた。
「あの男の何が気に食わんか、分かるか」
「……嘘を、つかないところ、でしょうか」
「そうだ」
彼は言った。
「嘘つきは崩せる。あれは崩せん」
彼は壁から背を離した。
「気をつけろ。……あれは、お前を憎んでおらん」
お読みくださって、ありがとうございます。新しい敵が出ました。
ヨハン・ケルン。薬種商ギルドの元締めで、侯の金庫番です。この人には悪意がありません。先に払った家から渡すという、商いの筋を通しているだけです。第一部の敵が数えない人と数え方を変える人だったのに対して、この人が握っているのは、順番の決め方です。
次回、閉じるのか、開けるのか。ブックマークで見守っていただけると嬉しいです。




