↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
27/50

第27話 買いに来た男

 その男は、昼を過ぎてから来た。


 馬車ではなかった。徒歩だった。供も連れていなかった。門番が呼び止めようとして、名を聞いて、それから慌てて背筋を伸ばした。


「ヨハン・ケルンと申します」


 男は玄関の広間で頭を下げた。


 四十半ばだろうか。上等だが地味な外套を着ていた。指に宝石は無かった。爪は短く切り揃えられていて、指の腹に薬研を挽く者の胼胝があった。


「薬種の商いをしております」


「宮廷施療院の運営を預かっております。エルナ・フォン・グラーフェンと申します」


「存じております」


 ケルンは微笑んだ。


「王都で、いま、いちばん名の知れたお嬢さんですから」


    *


 エルナは彼を院長室へ通した。テオドールは席を外していた。ケルンは勧められた椅子に浅く腰かけた。背は伸びていた。商人の座り方だった。


「南の街道の斑を、聞き及んでおります」


「はい」


「熱を下げる薬種が要りますな。それから膿を止めるもの。汗を止めぬための塩も」


 彼は指を三本立てた。


「うちにございます」


 エルナは息を詰めた。


「お譲りいただけますか」


「もちろん」


 ケルンは即答した。


「商いですから」


 彼は懐から帳面を出した。角の擦れた、使い込まれた帳面だった。エルナのものとよく似ていた。彼はそれを卓に置いて開いた。


「ただ、順番がございまして」


「順番」


「はい」


 ケルンは頁を指でなぞった。


「先にお代を納めた家から、先にお渡しする。商いの筋でございます。これを崩しますと、次から誰も先に払いません。先に払う者がいなくなれば、私は薬種を仕入れる元手を失います。元手を失えば、来年、王都に薬種は入りません」


 彼は顔を上げた。


「私は、間違ったことを申しておりますか」


 エルナは答えなかった。


 答えられなかった。


    *


 彼女は自分の帳面を卓に置いた。開いた。二冊が並んだ。


 ケルンの帳面には、家の名と金額が並んでいた。整った字だった。エルナの帳面には、人の名と札の色と刻が並んでいた。下手な字も混じっていた。ミラが書いた頁だった。


 ――また、二冊だ。


 エルナは思った。あの検分の広間でも、卓に二冊が並んだ。あのときは、片方が嘘をついていた。


 今度は。どちらも、嘘をついていない。


「私の順番は、重い人から、です」


 エルナは言った。


「あなたの順番は、先に払った人から」


「さようで」


「重い人が、先に払っているとは限りません」


「限りませんな」


 ケルンは頷いた。悪びれもしなかった。


「ですが、お嬢さん」


 彼は言った。


「あなたの順番も、誰かを後ろに回しております。そこは、同じでしょう」


 部屋の空気が止まった。エルナは口を開いて、閉じた。


 その通りだった。彼女は札を貼る。赤を先にする。青を待たせる。待たせた者が待っている間に悪くなることを、彼女は知っている。知って、なお、貼っている。


 ――この人は。


 ――私と、同じ場所に立っている。


    *


 戸が開いた。ラインハルトが入ってきた。入ってきて、卓の二冊を見て、それからケルンを見た。


 空気が変わった。軍医団長の目だ。戦場で人を数える目だった。


 ケルンは椅子から立って、丁寧に頭を下げた。


「アシェンバッハ伯爵さま」


 ラインハルトの手が動いた。腰の剣にではなかった。だが、動いた。


「団長」


 エルナは言った。声は大きくなかった。


「ここは、私の職場です」


 ラインハルトが止まった。彼はエルナを見た。


 一拍あった。いつもの一拍だった。


 それから、手を下ろした。


 彼は壁際まで下がって、腕を組んだ。何も言わなかった。エルナはその一拍の意味を考えた。考えて、いまは考えている場合ではないと思い直した。


「ケルンさん」


「はい」


「施療院に、いま、お支払いできる金子はありません」


「存じております」


「王命の職を得ましたが、金庫の鍵は、まだ、私の手にありません」


「それも、存じております」


 ケルンは帳面を閉じた。閉じる音が、やけに小さかった。


「ですから、こうして、私が参ったのです」


    *


「ケルンさん」


 エルナは言った。


「あなたは、なぜ、ご自分でいらしたのですか」


 商人が顔を上げた。


「使いをよこせば済むお話です。ギルドの元締めが、供も連れずに施療院の門をくぐる理由が、分かりません」


 ケルンは少し考えるように黙った。それから指の腹をこすった。薬研を挽く胼胝のある指だった。


「……父が、そうしておりました」


「お父上」


「同じ商いをしておりました。あれも、自分で歩く男でして。売る先を自分の目で見ておかねば値がつけられんと、そう申しまして」


 彼は微笑んだ。その微笑みが、初めて少しだけ崩れた。


「私は、父ほど良い商人ではございません。ですが、歩くところだけは真似ております」


「お父上は、いま」


「亡くなりました」


 ケルンは言った。


「ずいぶん前に。……この王都で、熱が流行った年でございます」


    *


 彼は立ち上がった。外套の裾を直して、扉の前で振り返った。


「お嬢さん。おひとつ、お伝えを預かっております」


 エルナは顔を上げた。


「ダーレム侯爵さまが」


 ケルンは言った。


「よろしくと」


    *


 扉が閉まった。足音が遠ざかった。エルナは椅子に座ったまま、二冊の帳面を見ていた。ひとつは自分のもの。ひとつは、いま持ち去られたもの。


 ――次は、君を、買いに来よう。


 あの声が耳の奥で鳴った。豪奢な外套の男が、宝石だらけの指で、この帳面を指したのだった。


 あれから、まだ、幾日も経っていなかった。


    *


「エルナ」


 壁際から声がした。ラインハルトが腕を組んだまま立っていた。


「あの男の何が気に食わんか、分かるか」


「……嘘を、つかないところ、でしょうか」


「そうだ」


 彼は言った。


「嘘つきは崩せる。あれは崩せん」


 彼は壁から背を離した。


「気をつけろ。……あれは、お前を憎んでおらん」

お読みくださって、ありがとうございます。新しい敵が出ました。

ヨハン・ケルン。薬種商ギルドの元締めで、侯の金庫番です。この人には悪意がありません。先に払った家から渡すという、商いの筋を通しているだけです。第一部の敵が数えない人と数え方を変える人だったのに対して、この人が握っているのは、順番の決め方です。

次回、閉じるのか、開けるのか。ブックマークで見守っていただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。