第26話 赤い斑
夜明け前に門が鳴った。
エルナは寝台から起きた。外套を羽織るより先に窓へ寄った。荷車が一台、門の内へ入ってくるところだった。
馬ではなく人が引いていた。若い男だった。二十代の半ばだろうか。肩と腕が荷駄引きのそれで、脛まで泥がはねていた。
轅を下ろすとき、男は膝を折らなかった。腕だけで受けて、そのまま静かに置いた。荷台の中へ響かせない置き方だった。誰かに教わったのでなければ、自分で覚えた手つきだ。泥のはね上がりが脛の高さで揃っているのを見て、エルナは、この男が夜通し止まらずに引いてきたのだと思った。
「南の街道筋から来ました」
男は言った。息は上がっていなかった。
「クラウスといいます。……三人、乗せてます」
エルナは荷台へ回って、筵をめくった。女がひとり。老人がひとり。子どもがひとり。三人とも熱で目が濁っていた。
エルナは女の襟をひらいた。
胸に赤い斑が出ていた。
――ああ。
息を吸って、吐いた。それだけの間に体は動きはじめていた。
「ミラ。東の一角に寝台を三つ。間を空けて並べて」
「はい! いま!」
「ハンナさん。白の札をお願いします。触った手は井戸で洗ってから戻ってください」
「言われなくてもやるよ」
奥からハンナの声が返った。クラウスは荷台の縁を掴んだまま立っていた。
「あの」
「はい」
「……うちの村に、まだ、おります」
エルナは顔を上げた。
「何人ですか」
「数えてません」
男は言った。
「数えられる者が、おりません」
*
朝の光が入るころ、エルナは物置の前に立っていた。
棚を数えた。押さえるための布。井戸から運ぶ桶。焼くための薪。熱を下げる薬種の壺。指を折りながら数えて、帳面に書きつけて、それから閉じた。
三日分だった。
棚は、あの峠のあとに整え直したままの並びだった。左から、押さえるための布。その隣に桶。薪。薬種の壺は、右の一段上に載せてある。取る順に置いてあるのは、暗がりでも手が迷わないためだった。
整っていることと、足りていることは、まったく別のことだ。むしろ整った棚のほうが、無いものがはっきり見える。
ハンナが井戸から戻ってきて、濡れた手を前掛けで拭きながら棚を覗いた。それから鼻を鳴らす。
「布は、あと何枚だい」
「四十一枚です」
「洗って使い回して、かい」
「四十一枚です」
ハンナは黙った。太い腕を組んで、しばらく棚を睨んでいた。
「……あんた、あの峠のとき、何枚使った」
「一日で、百二十枚を超えた日があります」
「一日でかい」
「はい」
ハンナは組んだ腕を解いた。
「じゃあ、こいつは半日もたないね」
「半日ももちません」
エルナは答えた。
「鐘四つほどです」
*
――足りない。
エルナは帳面の上に手を置いた。
この数月、彼女がしてきたことは数えることだった。数えれば順番が見えた。順番が見えれば手が届いた。届かせるための段取りを組めば、人は減らずに済んだ。
だがいま帳面に並んでいるのは、無い物の名前だった。布が、無い。薬種が、無い。
あの疫のとき、足りなかったのは手だった。手は、分ければ増えたことにできる。同じ人数でも、走らせる順を変えれば、二人ぶんの仕事が回る。エルナがやってきたのは、そういうことだった。
布は、走らせる順を変えても増えない。四十一枚は、どう並べ替えても四十一枚だった。
数えても、増えない。
*
「閉じるという手がある」
声は戸口からした。ラインハルトが柱に肩を預けて立っていた。いつからいたのか分からなかった。
「街道を封じる。南から王都へ入る道は三本だ。軍で塞げば、明日にでも止まる」
「止まりますね」
エルナは帳面を抱えたまま答えた。
「王都は」
彼女は続けた。
「守れます。……村は、死にます」
ラインハルトの目がわずかに動いた。
「食糧が入りません。薬種も入りません。街道筋の村は、王都へ物を売って穀を買っています。三日で干上がります」
「その代わり、王都の十万が助かる」
「はい」
「お前は、それを承知で、閉じないと言うのか」
「まだ、言っていません」
エルナは言った。
「私は、まだ、数えていませんから」
沈黙が落ちた。ラインハルトが柱から背を離して、エルナの前まで来る。
近かった。以前なら一歩下がっていた距離だ。
エルナは下がらなかった。
「数えて、足りなかったら」
彼は言った。
「どうする」
「分かりません」
「分からんまま、決めるのか」
「決めます」
エルナは彼を見上げた。
「それが、いまの私の職ですから」
*
ラインハルトは答えなかった。しばらく彼女を見ていた。それから短く息を吐いた。
「……お前は」
彼は言いかけて、やめた。言いかけてやめたのは、初めてだった。この人はいつも短く言い切る人だった。言い切って、それきりだった。
エルナは自分の胸が妙に落ち着かないことに気づいた。
「団長」
「なんだ」
「軍の帳面を、お借りできますか。街道の関で、この半月に通った荷と人の数を」
ラインハルトは眉を上げた。
「……お前は、俺の顔を見て、荷の数の話をするんだな」
「はい」
「わかった」
彼は背を向けた。戸口で一度だけ止まった。
「借りに来るときは、俺のところへ来い。使いをよこすな」
それだけ言って出ていった。
エルナはしばらく帳面を抱えたまま立っていた。
*
東の一角に、テオドール院長が来ていた。老人は寝台の脇に膝をついていた。子どもの襟をひらいて、赤い斑を長いこと見ていた。ずいぶん長かった。
「院長先生」
「……エルナ」
彼は顔を上げなかった。
「この形を、わしは知っておる」
「斑の病、ですね」
「いや」
院長は首を振った。
「あのときの斑は、もっと散っておった。これは、真ん中が白い。輪になっておる」
彼は震える指で子どもの胸をなぞった。
「三十年前と、同じ形だ」
エルナは動けなかった。三十年前。その言葉が、部屋の空気を変えた。
「院長先生。三十年前に、何が」
「……あの年も、南から来た」
老人は寝台の縁を掴んで立ち上がった。骨の鳴る音がした。
「わしは、まだ若かった。走り回っておった。そして、数えておった者が、一人おった」
彼はエルナを見た。
「おまえさんの、婆さまだ」
*
その夜、エルナは部屋の隅に置いた木の箱を見た。
三十年、テオドールが預かっていた箱だった。まだ開けていなかった。開ける勇気が、というのではなかった。ただ、開けるための時間が一日も無かった。
彼女は箱に手を伸ばした。伸ばしかけて、止めた。
廊下を走る足音がする。ミラだった。
「エルナ様! 門に、荷車が二台!」
エルナは立ち上がった。
箱は、そのままにした。
ここから第二部です。
第一部でエルナが証明したのは、数えれば救えるということでした。ここから突きつけられるのは、その先です。数えても、物が無ければ救えない。棚には、三日分しかありません。
彼女は決める側になりました。決める側は、まだ倒れてもいない人の生き死にを、紙の上で決めることになります。
そして、街道を閉じようと言い出したのは、あの人のほうでした。守る・守られるの形が、少しずつ変わっていきます。本人たちは、まだ気づいていません。
次回、施療院の門を、客がくぐります。




