第25話 数えるのは、私たちです
検分の広間に、二冊の帳面が、並べられた。
一冊は、美しかった。揃った字。整った罫。筆頭医ヴィクトル・ラングの、帳面だった。
もう一冊は、汚れていた。角が、折れていた。血の指の跡が、ついていた。字は、下手だった。
「北の戦線より、運ばれし負傷兵、三十二名」
ヴィクトルは、淀みなく、読み上げた。
「うち、当院にて、亡くなりし者――一名」
*
「三名です」
声は、広間の、後ろから、来た。
振り向いた貴族たちが、眉を、ひそめた。
そこに、立っていたのは、太い腕の、五十一の女だった。手は、洗っても落ちない染みだらけで、背は、丸くて、上等な靴も、履いていなかった。
「下働きの、ハンナと、申します」
彼女は、そう言った。
そして、汚れた帳面を、両手で、掲げた。
「三名です。ヘルムート、十九。ヨスト、二十三。名の分からぬ者が、一人。……あたしが、看取りました。あたしが、書きました」
*
「筆頭医」
検分の長が、静かに、問うた。
「なぜ、一名か」
「二名は、運ばれて一日のうちに、亡くなりました」
ヴィクトルは、少しも、動じなかった。
「達しのとおり、施療院の死者には、数えません。……運ばれた時点で、すでに、手の施しようが」
「ヘルムートは」
ハンナが、遮った。
「鐘二つ、待ちました」
広間が、静まった。
「腹を、やられてました。赤の札です。癒し手の手が、空くのを、待ってました。……押さえる布が、ありませんでした。棚が、空でした。あたしは、自分の前掛けを、裂いて、押さえました。足りませんでした」
ハンナは、帳面の、その頁を、開いた。
「だから、書きました。布、無し。氷、無し。ゆえに、間に合わず、と」
*
もう一枚が、卓に、置かれた。
物の払い出しの、控えだった。テオドール院長が、震える手で、持ってきたものだった。
いつ、布が止まったか。いつ、氷が減ったか。いつ、癒し手が、引き上げられたか。
その日付が、汚れた帳面の、死者の日付と。
――そっくり、重なっていた。
書記の羽根ペンが、止まった。
「これは」
検分の長の声が、低くなった。
「筆頭医。数えぬことにした死者の、そのぶんだけ。物を、削ったのではないか。削ったから、また、死んだのではないか。……死んだ者を、また、数えぬのか」
「数え方の、話です」
ヴィクトルは、言った。
初めて、その声が、硬かった。
「感情の話を、しているのでは、ありません。私は、一つも、嘘を――」
「では、聞く」
長は、その、汚れた帳面を、指した。
「ヘルムート。十九。……この者は。生きて、いるのか。死んで、いるのか」
ヴィクトルの、唇が、開いた。
止まった。
この人は、三十年、数字を、磨いてきた人だった。だから、誰よりも、正確に、分かってしまったのだ。ここには、逃げ道が、一つも、ないと。
「…………死んで、います」
*
壁際で、荒れた手を、握り合わせていた女が、進み出た。
「ヒルダと、申します。石工の、ヨーゼフの、女房です」
広間が、ざわめいた。告発した女だった。
「取り下げません」
ヒルダは、まっすぐに、言った。
「この娘が、うちの人に、黒い札を貼ったのは、本当です。一目見て、決めたのも、本当です。あたしは、死ぬまで、忘れません」
彼女は、エルナを、見た。憎しみは、まだ、そこに、あった。
それでも。
「けど、この娘は」
ヒルダは、言った。
「うちの人の、名前を、書いてました。ヨーゼフって。いつ来て、誰が水をやって、最期に何て言ったかまで。……全部、書いてました」
彼女は、ヴィクトルを、見た。
「そちらの先生は。うちの人の名前を、一度も、呼びませんでした」
*
裁定は、その日のうちに、下った。
――疫病下の選別は、施療院の権限を、超えるものにあらず。決める者なくば、全員が待ち、全員が死す。ゆえに、これを、罪に、問わず。
――「一日のうちの死者を数えず」の達しは、これを、撤く。死は、死として、数えよ。
――筆頭医ヴィクトル・ラングは、その任を、解く。
広間の、いちばん後ろで、ミラが、飛び上がった。ハンナが、その口を、慌てて、塞いだ。
「ならびに」
長は、続けた。
「宮廷施療院に、新たに、職を、置く」
エルナは、顔を、上げた。
「診て、分け、並べ替え、物と人を、配する職。これを、施療院の、運営を司る職とし、その任に――エルナ・フォン・グラーフェンを、充てる」
広間が、ざわめいた。
治癒の才を、持たぬ娘が。魔法を、一つも、使えぬ娘が。宮廷施療院の、正式な職に、就く。
「あわせて、記録の職を、置く」
長は、言った。
「給金を、出せ。……名を、書く者がおらねば、この宮廷は、また、同じ数え方を、するであろうからな」
ミラが、今度こそ、声を上げて、泣いた。
*
「エルナ・フォン・グラーフェン。何か、申すことは」
エルナは、広間の中央に、進み出た。
そして、静かに、頭を、下げた。
「私は、治せません」
それは、あの日、家を追われた娘が、ずっと、抱えてきた言葉だった。
「魔法は、使えません。傷は、塞げません。……これからも、一人も、治せません」
彼女は、顔を、上げた。
「数えるのは、私たちです」
声は、大きくは、なかった。
「私だけでは、ありません。入口に立つ人。走る人。寝台を、担ぐ人。水を、含ませる人。……誰かが、必ず、数えます。次に、病が来たときも。私が、いなくても」
*
広間を、出るとき。
豪奢な外套の、恰幅のいい男が、待っていた。
ダーレム侯は、上機嫌ですらあった。
「良い駒だった」
彼は、ヴィクトルが去った廊下を、見もせずに、言った。
「三十年、磨いた数字だ。惜しいがね。……傷んだ駒は、盤から、下げるものだ」
エルナは、この人が、指一本、失っていないことを、知った。
ヴィクトルは、切られた。この人は、切った。ただ、それだけだった。
「お嬢さん。私は、機嫌がいい」
侯は、微笑んだ。
「君は、正しい。正しさは、高く売れる。……次は、君を、買いに来よう」
彼は、宝石だらけの指で、エルナの、帳面を、指した。
「その帳面が、いつまで、飼い主なしで、いられるかな」
*
施療院に、戻った。
テオドール院長が、門の内で、待っていた。老いた目が、赤かった。
「エルナ」
「はい」
「一つ、渡すものがある」
彼は、古びた、木の箱を、抱えていた。
「三十年、わしが、預かっておった。……アガーテが、遺したものだ」
エルナの、息が、止まった。
祖母の、名前だった。
「あれは、この院の、やり方を、変えようとして。……敗れて、去った。この箱を、わしに、預けてな。『いつか、これを読める子が、来る』と、言い残していきおった」
院長は、深く、頭を、下げた。
「遅くなって、すまん。……おまえさんが、来てから、ずっと。渡す勇気が、なかった」
*
「エルナ様!」
ミラが、駆けてきた。
息が、切れていた。顔が、青かった。さっきまで、泣いて、笑っていた顔が。
「南の、街道筋から、報せです。旅の人が、三人。……熱と」
彼女は、言った。
「胸に、赤い、斑が」
エルナは、その言葉を、静かに、受け止めた。
終わらなかった。
当たり前だった。門は、明日も、開く。人は、明日も、運ばれてくる。終わるのは、物語だけで、施療院は、終わらない。
「ハンナさんに、白の札を。……ミラ、東の一角を、空けます」
「はい!」
*
その夜。
人の引いた施療院で、エルナは、帳面を、つけていた。
黒い外套の男が、隣に、腰を、下ろした。
エルナは、懐から、すり切れた手帳を、取り出した。
「団長。お返しします」
ラインハルトは、それを、見なかった。
「預けた、と、言ったろう」
「でも、これは、あなたの――」
「俺の百四十三は」
彼は、言った。
「もう、俺だけのものじゃ、なくなった。あの広間で、みんな、聞いた。書記が、名を、書き写した。……あれは、いま、宮廷の、記録だ」
彼は、エルナの、帳面を、見た。
「向きの、逆な帳面が、二冊、並んでいる。……それでいい」
エルナは、二冊を、並べて、置いた。
悔いるために数えた帳面と、救うために数える帳面が、ランプの下で、肩を、寄せていた。
「団長」
「なんだ」
「南の街道に、斑が、出ました」
「聞いた」
「……たぶん、また、長い夜が、来ます」
ラインハルトは、答えなかった。
しばらく、黙っていた。
それから――一拍。
いつもの、あの、一拍だった。
「エルナ」
エルナの、指が、止まった。
この人が。この人が、名前を、呼んだのは。
初めてだった。
「……はい」
「俺が、いる」
それだけ、だった。
彼は、それ以上、何も、言わなかった。窓の外を、見ていた。耳の縁が、赤かった。
エルナは、答えられなかった。
ただ、胸の奥が、静かに、熱くて。ランプの灯りが、少し、滲んで、見えた。
窓の外に、月が、出ていた。
明日から、また、数える。
一人ずつ、大切に。
第25話、ここまでお読みくださって、本当にありがとうございます。大きな区切りの回でした。
「無能」と呼ばれ、家を追われ、婚約を破棄された娘が――魔法を一つも使えないまま、宮廷施療院の正式な職を得ました。それも「治す職」ではなく「数える職」として。エルナが手に入れたのは、名誉ではなく、明日も誰かが数え続けるための、仕組みです。
ミラに給金が出ます。ハンナは、もう忘れません。ヒルダは、告発を取り下げませんでした。それでいいのだと思います。
そして、ラインハルトが、初めて、名前を呼びました。
――ですが。ダーレム侯は、指一本、失っていません。「次は、君を、買いに来よう」。祖母アガーテの遺した箱は、まだ、開いていません。南の街道には、赤い斑が出ました。
物語は、ここから、次の段へ向かいます。長い夜は、まだ、これからです。
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