第24話 エルナのいない施療院
報せを持ってきたのは、ラインハルトだった。
宿の戸を、蹴破るように、開けて。
「北が、崩れた。三十人以上、来る」
エルナは、立ち上がっていた。体が、先に、動いていた。
だが。
次の一歩が、出なかった。
――私は、職を、解かれている。
「団長。私は」
「走れ」
彼は、それだけ、言った。
*
施療院の門は、荷車で、埋まっていた。
血の匂い。怒号。呻き。担架が、次々と、担ぎ込まれていく。あの、疫病の峠の朝と、同じ音だった。
エルナは、門へ、駆けた。
門番が、槍を、横に、倒した。
「入れません」
若い門番だった。エルナの顔を、知っていた。知っていて、それでも、槍を、倒していた。
「筆頭医様の、達しです。……お引き取りを」
エルナは、立ち尽くした。
門の、外だった。
鉄の柵の、こちら側。血の匂いは、届く。声も、届く。誰が、運ばれていくかも、見える。だが――手は、届かない。
*
ここは。
エルナは、足元の、石畳を、見た。
ここは、ヒルダが、三日、立っていた場所だった。
同じ石。同じ柵。同じ、届かなさ。
彼女は、ここで、三日、突っ立って、待って、そして、四日目に、教えられたのだ。ゆうべ、死にましたって。
エルナは、初めて、その三日を、自分の足で、知った。
*
柵の、向こうを、見た。
見て――息が、止まった。
入口に、ハンナが、立っていた。
太い腕を、まくり上げて。運ばれてくる担架の、一つ一つに、屈み込んで。一目、見て。
札を、置いていた。
赤。赤。青。青。赤。
迷いは、なかった。手が、速かった。エルナが、あの門でやっていたのと、まったく、同じ速さだった。
「そっちの兵は、青! 入口の脇に寝かせな、動かすんじゃないよ!」
声が、飛んだ。
「赤は、奥だ! 癒し手の手が空くまで、水と、布で、押さえときな!」
――ハンナさんが。
選別は、見捨てる順番を決めるのと同じだ、と。三十年、そう言ってきた人が。
いま、入口に、立っていた。
*
小さな影が、駆けていた。
ミラだった。
広間から、廊下へ。廊下から、奥へ。奥から、また、入口へ。あの、誰よりも速い足で。
「東の寝台、二つ、空きました! 癒し手様、あと二人分!」
その腕に、帳面が、抱えられていた。
エルナの、台帳だった。
ミラは、走りながら、書いていた。
字は、下手だった。エルナが、教えたのだ。幾晩も、かかった。刻を、書く。名を、書く。札の色を、書く。それだけを、繰り返し、繰り返し。
――クビになったのは、下働きの、ミラでしょう。
あの子は、本当に、来ていた。
給金の出ない、ただの、ミラとして。
*
下働きの少年たちが、寝台を、担いでいた。
熱の高い者を、入口へ。動ける者を、奥へ。誰かが、叫んだ。「順番、変えろ! こっちが先だ!」
エルナが、教えたことだった。
名前も、知らない子だった。いつか、廊下ですれ違って、一度か二度、話しただけの子だった。
その子が、いま、順番を、変えていた。
柵の、こちら側で。
エルナの、目から、涙が、こぼれた。
――回って、いる。
私が、いなくても。
回って、いる。
*
「通せ」
声が、頭上から、降った。
ラインハルトが、門番の前に、立っていた。
「軍医団長、アシェンバッハである。北の戦線の負傷兵、三十二名。軍の兵の手当てに、この者を、要する」
「し、しかし、筆頭医様の」
「筆頭医の達しは、施療院の職の話だ」
彼は、短く、言った。
「軍の兵の命は、軍が、預かる。……どけ」
槍が、上がった。
エルナは、門を、くぐった。
*
ハンナは、振り返らなかった。
入口に屈み込んだまま、担架の、若い兵の顔を、覗き込んで、赤い札を、置いて。それから、言った。
「遅い」
「……はい」
「札が、足りない。作りな」
それだけだった。
「よく来た」も、「大丈夫かい」も、なかった。ただ、仕事が、渡された。
エルナは、その場に、膝を、ついた。手が、震えていた。震えたまま、紙を、切った。赤。赤。青。
ハンナが、ぼそりと、言った。
「あんたが、いないとさ」
手は、止めずに。
「回らないと、思ってたよ。……回るんだね、これが。悔しいくらいに」
彼女は、次の担架を、覗き込んだ。
「あんたが、来てから、ずっと、うるさく言い続けたことだ。……あたしらは、覚えちまったんだよ。手が、勝手に、動くんだ」
*
その日、ヴィクトル・ラングは、広間の、隅に、立っていた。
止めは、しなかった。
ただ、見ていた。ハンナの手を。ミラの足を。少年たちの、寝台を。柔らかな目で。何かを、勘定する目で。
彼は、一度だけ、口を、開いた。
「……布が、ありませんね」
「はい」
エルナは、答えた。
「氷も、ありません。癒し手も、二人、足りません」
「私の、せいだと?」
「いいえ」
エルナは、赤い札を、切りながら、言った。
「書くだけです。……布、無し。氷、無し。ゆえに、間に合わず、と」
ヴィクトルの、目が、細くなった。
*
その夜。
三十二人のうち、二十九人が、生きていた。
三人が、死んだ。
ハンナは、ランプの下で、帳面を、開いていた。太い指で、下手な字を、一字ずつ。エルナは、その隣に、座っていた。書いているのは、ハンナだった。エルナは、見ているだけだった。
――ヘルムート。十九。腹。赤の札。
――手当てまで、鐘二つ。癒し手の手、空かず。
――押さえる布、無し。
――ゆえに、間に合わず。
ハンナの、指が、止まった。
「あたしは、三十年」
彼女は、言った。
「こういう夜を、忘れることで、明日、働いてきたんだ」
彼女は、また、書いた。
「もう、忘れないよ」
*
その、一冊が。
翌朝、検分の広間へ、運ばれることになるとは。
このとき、まだ、誰も、知らなかった。
第24話、ありがとうございます。……この回を書くために、ここまで来ました。
エルナは、門の外に立ちます。ヒルダが三日立っていた、あの同じ場所に。そして、柵の向こうで、施療院が――彼女がいなくても――回っているのを、見ます。
ハンナが札を貼っています。三十年「選別なんて、見捨てる順番だ」と言い続けた人が。クビになったミラが、給金も出ないのに、走っています。名前も知らない少年が、順番を変えています。
段取りは、もう、エルナ一人のものではなくなりました。「あたしらは、覚えちまったんだよ。手が、勝手に、動くんだ」。
そして、ハンナの書いた一冊が――布が無かった、氷が無かった、ゆえに間に合わなかった、と書かれた一冊が、明日、検分へ運ばれます。
次回、第25話。大きな区切りです。どうか、見届けてください。




