第23話 段取りだけでは、回らない
辞令には、こう、書いてあった。
――エルナ・フォン・グラーフェンを、宮廷施療院の職より、解く。
理由も、添えてあった。当人は、目下、王命の検分の、渦中にある。その身を、現場に置き続けることは、検分の公正を、欠く。ゆえに、結着まで、職を、離れさせる。
筋は、通っていた。
美しく、正しく、通っていた。あの人の書くものは、いつも、そうだった。
「――ふざけんじゃないよ!」
ハンナの声が、広間に、響いた。
「検分の公正だって? じゃあ、告発をけしかけた奴が、辞令を書くのは、公正なのかい!」
誰も、答えなかった。
答えられる者が、この施療院に、一人も、いなかった。
*
もう一枚、貼ってあった。
記録係、という職を、置かない、という達しだった。
――当院に、記録係の職は、元来、存在せず。ゆえに、これを、置かず。
嘘では、なかった。
ミラは、ずっと、下働きだった。給金も、下働きのもの。台帳を付けていたのは、ただ、エルナが頼み、ミラが、走ってくれていたからにすぎない。
職として、存在しない。だから、その働きも、存在しない。
――評価されないものは、無いものと、同じ。
ヴィクトルは、それを、誰よりも、正確に、知っている人だった。
「エルナ様」
ミラが、袖を、引いた。
小さな顔が、笑おうとして、失敗していた。
「あたし、クビ、ですって」
*
物は、その日から、来なくなった。
布が、来ない。熱冷ましの氷が、来ない。癒し手が、二人、また、王宮づきに、引き上げられた。
理由は、すべて、正しかった。
――当院の死者は、この、ひと月あまりで、三割、減じたり。ゆえに、これを、要さず。
エルナは、空になった棚の前に、立った。
段取りは、順番を、変えられる。人の配置を、変えられる。動線を、引き直せる。
だが。
無い布は、配れない。
無い氷は、当てられない。
いない癒し手の、手は、空かない。
エルナは、初めて、それを、思い知った。
――段取りだけでは、回らない。
数字は、権威を、崩せた。だが、金は、崩せない。金は、事実を、必要としない。金は、ただ、そこに、あるか、ないか、だけだった。
*
院を、出る日が、来た。
持ち物は、少なかった。着替えが、幾つか。祖母がくれた、古い匙が、一つ。
それと、二冊の帳面。
自分の、救うために数えた帳面と。あの人の、悔いるために数えた、すり切れた手帳。
門の前に、みんな、いた。
ミラが、しゃくり上げていた。声を、殺そうとして、殺しきれずに。
「あたし、」
しゃくり上げながら、言った。
「あたし、明日も、来ますから」
「ミラ」
「だって、クビになったのは、下働きの、ミラでしょう。……あたし、明日は、ただの、ミラだもん」
エルナは、その、小さな頭に、手を、置いた。何か、言おうとして、何も、言えなかった。
ハンナが、太い腕を、組んで、立っていた。
「泣かないよ、あたしは」
ぶっきらぼうに、言った。
「泣くと、あんたが、振り返るからね。……行きな。振り返らずに」
テオドール院長が、門の内側に、立っていた。
老いた背が、少し、丸かった。彼は、何も、言わなかった。ただ、深く、深く、頭を、下げた。
六十三年、宮廷医療の中で、生きてきた人が。十九の、下働きの娘に。
*
その夜。
街の、安い宿の、窓辺に、エルナは、腰を、下ろしていた。
施療院の、灯りが、遠くに、見えた。あそこには、まだ、寝ている人が、いる。誰が、札を、貼るのだろう。誰が、順番を、組み替えるのだろう。
戸を、叩く音が、した。
黒い外套が、立っていた。
「団長」
「食え」
ラインハルトは、パンと、干した果実を、卓に、置いた。それだけを、しに、来た人のように。
エルナは、笑おうとした。うまく、できなかった。
「……私、負けました」
言葉が、こぼれた。
「数字は、権威に、勝ちました。でも、お金には、勝てません。あの人は、嘘を、一つも、つかずに。……布を、止めるだけで、いいんです。それだけで、施療院は、止まります」
ラインハルトは、答えなかった。
「私、何も、持っていませんでした」
エルナは、うつむいた。
「魔法も。名前も。……お金も。持っていたのは、帳面だけです。帳面は、人を、治せません。布も、氷も、買えません。……私は、ずっと、何も、持っていない人間が、それでも、できることを、探していただけでした」
窓の外で、風が、鳴った。
「無理は、するな」
ラインハルトが、言った。
「お前が、倒れると」
そこで――一拍、間が、あった。
いつもの、あの、一拍だった。
「……この場が、止まる」
エルナは、顔を、上げた。
あの夜と。同じ言葉だった。疲れ果てた自分に、この人が、初めて、かけてくれた言葉だった。
でも。
いま、この宿の、この窓辺に。「この場」なんて、ものは、なかった。施療院は、遠くの灯りだった。ここには、干したパンと、二冊の帳面と、この人しか、いなかった。
――いま、この人は。
エルナの、胸が、鳴った。
――違うことを、言おうと、して。やめた。
ラインハルトは、窓の外を、見ていた。
その、耳の縁が、赤かった。
*
翌朝。
北の戦線が、崩れた。
街道を、荷車が、走った。荷車の上には、人が、積まれていた。血を流した、若い兵たちが、幾十人も。
運び込まれる先は、一つしか、なかった。
宮廷施療院。
布のない、氷のない、癒し手の減った、記録係のいない――
そして、エルナの、いない、施療院に。
第23話、ありがとうございます。今回は、いちばん暗い谷です。
数字は権威を崩せました。でも、お金は崩せません。「布を止めるだけでいい」――ヴィクトルは、嘘を一つもつかずに、施療院を止められます。段取りは、物と人がなければ、回らないからです。
そして、エルナの本音。「私は、何も持っていない人間が、それでもできることを、探していただけでした」。この物語は、たぶん、ずっと、その話でした。
ラインハルトが、第5話と同じ言葉を、言い直しました。何を言いかけて、やめたのか。……エルナは、気づいてしまいました。
次回。エルナのいない施療院に、負傷兵が、運び込まれます。
どうか、次回を、見届けてください。




