第22話 名前は、いりません
筆頭医の執務の間に、呼ばれたのは、その、翌々日だった。
卓の上に、茶が、二つ、置いてあった。エルナの分も。ヴィクトルは、自ら、それを、注いだ。筆頭医が、下働きに、茶を、注いだ。
「掛けなさい」
*
「単刀直入に、申し上げましょう」
ヴィクトルは、一枚の紙を、卓に、滑らせた。
エルナは、それを、読んだ。
読んで――息を、呑んだ。
色の札。台帳。動線。診て、分けて、並べ替える手順。それらを、王都のすべての施療の場に、正式な決まりとして、定める、という案だった。
書式まで、揃えてあった。誰でも、読めるように。誰でも、使えるように。
美しく、整っていた。
「予算が、つきます」
ヴィクトルは、静かに、言った。
「布が来る。氷が来る。癒し手が、二人、戻る。……あの、ミラという娘にも、正式な給金が、出せる。下働きではなく、記録係として」
エルナの、指が、震えた。
布。氷。癒し手。給金。
どれも――叫んでも、泣いても、手に入らなかったものだった。
「あなたの段取りは、正しい」
彼は、言った。
「正しいものは、広まるべきだ。私は、本気で、そう思っています。……ただ、一つだけ、条件があります」
「……はい」
「私の名で、出す」
*
ヴィクトルは、湯気の立つ茶を、静かに、飲んだ。
「筆頭医ヴィクトル・ラングが、定めた決まり、として。あなたの名は、どこにも、出ない。あなたは、これまでどおり、施療院の、下働きです」
エルナは、その紙を、見ていた。
「不服ですか」
「いいえ」
エルナは、即座に、答えた。
ヴィクトルの眉が、ほんの、少し、動いた。
「……即答ですね」
「名前は、いりません」
エルナは、言った。
「私の名が、どこにあっても、なくても。門の前で、人は、運ばれてきます。……札が、貼られるなら。誰の名で、貼られても、構いません」
ヴィクトルは、しばらく、エルナを、見ていた。
それから、初めて、心から、というふうに、微笑んだ。
「……あなたは、本当に、面白い人だ」
彼は、羽根ペンを、取った。
「では、話は、早い。ここに、あなたの、承諾の――」
「一つだけ」
エルナは、言った。
「数え方だけは。変えないで、ください」
*
羽根ペンが、止まった。
「……なんと?」
「運ばれて、一日のうちに、亡くなった方を」
エルナは、まっすぐに、彼を、見た。
「死者に、数えてください。それだけです。それ以外は、全部、あなたの、お名前で、結構です」
沈黙が、あった。
ヴィクトルは、羽根ペンを、置いた。
微笑みが、消えていた。消えると――その顔は、驚くほど、何もない、平らな顔だった。
「分かって、言っていますか」
彼の声は、まだ、穏やかだった。
「一日のうちの死者を、数に戻せば。死者は、三割、増える。増えれば、王宮は、この院の働きを、疑う。疑えば、予算は、減る。減れば、布も、氷も、来ない。……あなたが、いま、私に求めたのは。ミラという娘の、給金を、捨てることですよ」
エルナの、膝の上の、手が、固くなった。
分かっていた。痛いほど、分かっていた。
「……それでも」
「なぜ」
「あの、十三人には」
エルナは、言った。
「名前が、あります」
ヴィクトルの、目が、細くなった。
「私の名前は、いりません。……私の名前は、私のものだから、要らないんです。でも、あの人たちの名前は、あの人たちのものです。私が、譲れるものじゃ、ありません」
エルナは、卓の上の、美しい書式を、見た。
「その紙には、名前を書く欄が、ありません。何人、と、書く欄しか」
*
ヴィクトルは、長いこと、黙っていた。
窓の外で、鐘が、鳴った。
「……私はね、お嬢さん」
やがて、彼は、静かに、言った。
「名門ではない。地方の、村医者の、倅です。魔法の適性も、微塵もない」
初めて、聞く声の色だった。
「私は、数字だけで、ここまで来た。読んで、揃えて、示して。……三十年です。三十年、数字を、磨いてきた。それで、何が分かったと、思います?」
彼は、エルナを、見た。
「数字には、力がない」
その、平らな顔が、言った。
「数字は、飼われて、初めて、力になる。誰が、それを、抱えているか。それだけが、すべてだ。……あなたは、たまたま、運が、良かった。軍医団長という、太い腕が、あなたの数字を、抱えてくれた。それだけのことです」
エルナは、答えなかった。
その、半分は、本当だと、知っていたからだった。
「私は、ダーレム侯を、選びました」
ヴィクトルは、言った。
「あの方は、私の数字を、抱えてくださる。だから、私の数字は、力を持つ。予算が、動く。人が、動く。……お嬢さん。あなたの正しさは、一日で、飢える。私の数え方は、明日も、布を、買える」
彼は、その、美しい書式を、指で、そっと、こちらへ、押した。
「もう一度、聞きます。数え方を、変えろと、言いますか」
「はい」
「……三十年を、無駄だと、言いますか」
「いいえ」
エルナは、静かに、首を、振った。
「三十年、数えてこられた方に。だから、お願いしています。……あなたなら、分かるはずです。数えないことに、した数字が、どこに、行くのか」
*
ヴィクトルは、その紙を、手元に、戻した。
そして、ゆっくりと、二つに、折った。
「では、敵だ」
それは、怒りでは、なかった。
脅しでも、なかった。
ただ、勘定を、締めた者の、声だった。
「残念です。本当に。……私は、あなたを、気に入っていたのですよ」
*
翌朝。
施療院の壁に、また、一枚の紙が、貼り出された。
今度は、色札の隣では、なかった。
いちばん高い、誰の目にも入る場所に。
――辞令。
第22話、ありがとうございます。
今回は、この物語のいちばん芯を、卓の上に置く回でした。「名前はいらない。ただ、数え方だけは変えないで」。エルナが守っているのは、自分の手柄ではありません。死んだ人が、死んだ人として数えられること。それだけです。
そして、ヴィクトルは、実は、エルナの鏡でした。名門でも魔法使いでもなく、数字だけでここまで来た男。彼は「数字は飼われて初めて力になる」と学び、飼い主を選びました。エルナは、選びませんでした。
この二人の違いは、たぶん、それだけです。
次回。「辞令」に、何が書いてあるのか。……段取りは、物と人がなければ、回りません。
続きを、見届けていただけたら嬉しいです。




