第21話 名を、書いてありました
石工の家は、川沿いの坂の下にあった。
小さな家だった。壁に、切りかけの石が幾つも立てかけてあった。もう、誰も削らない石だった。
エルナは門口に立った。
台帳を、一冊、抱えて。
「帰っとくれ」
ヒルダは戸を開けたまま、そう言った。
*
「詫びに来たなら」
ヒルダの声は、乾いていた。
「いらないよ。詫びられて、うちの人が帰ってくるのかい」
「詫びには、来ていません」
エルナは、言った。
ヒルダの目がわずかに揺れた。
「黒の札を貼ったのは、私です。それは、変わりません。……許してくださいとは言いません。言ってはいけないと思っています」
「じゃあ、何しに来た」
エルナは腕の中の帳面を見た。
「あの日のことが書いてあります」
*
ヒルダはしばらく動かなかった。
それから、戸口の石段に腰を下ろした。座れ、とは言わなかった。だから、エルナは、立ったまま頁を繰った。
疫病の四日目。
あの、いちばんひどかった朝。
「ヨーゼフさん。石工。四十四。……四日目の朝の鐘の少し前に運ばれました。亡くなったのは、その三日あとの日暮れです」
エルナは、読んだ。
「熱が、五日。斑が、胸から首まで。息が、浅い。……私は、あなたのご主人を、一目、見ました。それは、本当です。一目、見て、黒の札を置きました」
ヒルダの握った手が白くなった。
「黒の札は」
エルナは、続けた。
「見捨てる札では、ありません。……手が届かない者に貼ります。もう、治せない。それでも、一人にしない。誰かが、必ず、そばにつく。そういう札です」
ヒルダが顔を上げた。
「そばに……?」
「ミラが、つきました」
エルナは頁を指でなぞった。
「十四の、小さな子です。三日のあいだ、ずっと、あなたのご主人のそばにいました。水を含ませました。朝と、昼と、日暮れに。……三日で、九度です」
ヒルダの唇が震えた。
「そんな、こと。……誰も、教えてくれなかった」
「聞かれなかったからです」
エルナは、静かに言った。
「私は、聞かれたことしか答えられません。……でも、書いてはありました。ずっと」
*
エルナはその頁のいちばん下を読んだ。
小さな字で書いてあった。あの夜、ミラが泣きながら報せに来たことを。エルナが、ランプの下で書き留めたことを。
「三日目の日暮れの少しあと。ご主人が、うわ言を言いました」
ヒルダが息を止めた。
「ミラが聞いています。……こう、言ったそうです」
エルナは、読んだ。
「――ヒルダが、外にいる」
ヒルダの荒れた手が口を押さえた。
「――入れるな。うつる」
*
沈黙が、あった。
川の音が、していた。
ヒルダはしばらく動かなかった。それから、その、ひび割れた手のひらに顔を埋めた。声は、出さなかった。ただ、痩せた肩が、大きく震えていた。
エルナは、待った。
どれくらい、そうしていたのか、分からなかった。
「……あの、馬鹿が」
やがて、ヒルダは掠れた声で言った。
「三日だよ。三日、あたしは、あそこで突っ立ってた。恨んでたよ。誰が入れてくれないんだって。……あの人が言ったのか」
「はい」
「あの、馬鹿が」
ヒルダは、泣いた。
今度は、声を出して泣いた。
*
日が傾いた頃。
ヒルダは袖で乱暴に顔を拭った。そして、エルナを見上げた。
「取り下げないよ」
その目は、まだ、赤かった。だが、まっすぐだった。
「あの検分でさ。あたしは、取り下げない。……あんたが、うちの人に黒を貼ったのは、本当だ。一目見て、決めたのも、本当だ。それは、あたしが死ぬまで忘れない」
「はい」
エルナは、うなずいた。
「忘れないでください」
ヒルダの眉が動いた。
「……あんた、変な娘だね」
「あなたが忘れたら」
エルナは、言った。
「私が忘れます。……忘れたら、私は、また、同じ一目で決めます。何も良くならないまま」
ヒルダは長いことエルナを見ていた。
それから、ふ、と、息を吐いた。
「……あの筆頭医の先生がさ」
彼女は、言った。
「言ったんだ。あたしが証言すれば、あの娘は罰せられるって。あんたが憎かったから、そりゃ、いいと思ったよ」
ヒルダは立ち上がった。
「けど、あの先生。うちの人の名前を、一回も呼ばなかった」
エルナの指が止まった。
「ヨーゼフだよ。名前があるんだ。……あの先生は、ずっと『ご主人』って言ってた。記録を読んだって言ってたのにさ。書いてあるだろう、名前が。いちばん上に」
*
坂の上に、黒い外套が立っていた。
いつから、そこにいたのか。ラインハルトは、何も言わなかった。エルナが坂を上りきると、ただ、隣に並んだ。
そして、黙って歩き出した。
言葉は、なかった。労いも、なかった。「よくやった」も、なかった。
ただ、歩幅が、エルナに合わせてあった。
――この人は。
エルナは、思った。
この人は、悲しい人と一緒にいるとき、何も言わずに隣を歩くやり方を。きっと、百四十三回、覚えたのだ。
夕日が、二人の影を、坂に長く伸ばしていた。
*
その頃。
筆頭医の執務の卓で、ヴィクトル・ラングは、報せを聞いていた。
石工の女があの娘を家に入れたという。
彼はしばらく羽根ペンを持ったまま、動かなかった。
それから、初めて。ほんの、わずかに眉を寄せた。
黒の札は、見捨てる札ではありません。もう治せない、それでも一人にしない札です。第四話でエルナが作ったあの札の、いちばん大事な意味を、ようやく書けました。
台帳は、告発の道具である前に、誰かの最期を覚えておくための帳面です。第二話の「誰も数えていない」は、たぶん、こういうことでした。
ヒルダは、告発を取り下げません。それでいいのだと思います。




