第20話 救えなかった名
検分の広間に、エルナは、一人で、立った。
高い天井。冷たい石。居並ぶ、顔、顔、顔。医たち。貴族たち。書記の羽根ペンが、紙を、引っかく音。
壁際に、ヒルダが、いた。荒れた手を、固く、握り合わせて。エルナを、見ていた。
その隣に、ヴィクトルが、立っていた。柔らかな目で。労わるように。
*
「グラーフェンのお嬢さん」
ヴィクトルの声は、優しかった。
「疫病の折。あなたは、黒の札を、何枚、貼りましたか」
「……十九枚です」
「そのうち、亡くなったのは」
「十八人です」
「一人は?」
「生きています。……三日目に、熱が、下がりました」
広間が、少し、ざわめいた。ヴィクトルは、微笑んだ。
「では、あなたの見立ては、十九分の一、外れた。……つまり、あなたが黒を貼った者の中に、生きられた者が、いた。そうですね」
エルナは、答えられなかった。
それは――ずっと、夜ごと、自分に、突きつけてきた問いだった。
「もう一度、伺います」
ヴィクトルの声が、静かに、広間に、落ちた。
「誰が、決めたのですか」
「……私です」
「誰に、許されて?」
エルナは、目を、閉じた。
誰にも、許されていない。院長にも、王にも、神にも。ただ、あの日、あの門で。決める者が、いなかったから。誰も、決めなければ、全員が、待たされて、全員が、死ぬから。
だから――私が、決めた。
「……許されて、いません」
エルナは、言った。
書記の羽根ペンが、走った。
ヴィクトルは、悲しげに、首を、振った。演技では、なかったのかもしれない。この人は、本当に、悲しんでいるのかもしれない。それが、いちばん、恐ろしかった。
「検分の皆様。この娘は、正直です。ゆえに、私は、彼女を、憎めない。……ですが。医でもない者が、命の順番を、決めていた。それを、この宮廷が、許してよいものか」
*
「証人が、ある」
声は、広間の、いちばん後ろから、来た。
低い、短い、飾りのない声だった。
人が、割れた。
黒い外套の男が、歩いてきた。石の床を、鳴らして。まっすぐに、広間の中央へ。
ラインハルト・フォン・アシェンバッハ。軍医団長。アシェンバッハ伯。
彼は、エルナの、隣に、立った。
*
「軍医団長。何を、証する」
検分の長が、問うた。
「選別を」
ラインハルトは、言った。
「この娘は、誰に許されて、命の順を決めたのか。……その問いに、答える」
彼は、外套の内側に、手を、入れた。
取り出したのは、すり切れた、小さな、手帳だった。角が、丸くなるほど、擦れた。何度も、開かれた。何度も、閉じられた。血の染みが、黒く、変わっていた。
エルナは、息を、呑んだ。
――だめ。
その手帳が、何であるか。それを、この人が、どれほど、誰にも見せずに、抱えてきたか。エルナは、知っていた。この、冷たい石の広間で。この、値踏みする目の前で。開いていいものでは、なかった。
「団長――」
「黙って、聞け」
彼は、エルナを、見なかった。
そして、手帳を、開いた。
*
「ヨナス。十六」
広間が、静まった。
「ラウル。二十二」
書記の、羽根ペンが、止まった。
「ヴィム。十九。ハインツ。三十四。テオ。十八。マルコ。二十七」
淡々としていた。
抑揚は、なかった。悲しげでも、なかった。ただ、名と、齢を。一つずつ。石を置くように。
「ギード。二十。エルヴィン。二十九。ヨーハン。十七」
誰も、止めなかった。
誰も、止められなかった。
「……全部で、百四十三ある」
ラインハルトは、手帳を、閉じた。
「十年だ。俺が、軍医として、戦場に立った、十年。俺が、助かると判じ、後に回し、そのあいだに、死んだ者たちだ」
彼は、顔を、上げた。
「一人ずつ、俺が、決めた。誰に許されて、でもない。決める者が、いなかったからだ。決めなければ、全員が、待って、全員が、死ぬからだ」
広間の、誰も、動かなかった。
「選別が、罪か」
声は、低いままだった。
「罪だ。俺は、そう思っている。だから、数えた。悔いるために、十年、数えてきた」
彼は、エルナを、見た。初めて。
「――罪を、数えるなら」
一拍。
「まず、俺を、数えろ」
*
「この娘は」
ラインハルトは、続けた。
「俺が、間違えた場所で。間違えないための、段取りを、作った」
彼は、手帳の、擦り切れた表紙を、指で、叩いた。
「ヨナス。十六。腹をやられて、俺が、後に回した。……もし、あの日、この娘の色の札があったなら。ヨナスは、赤だ。先に、診られていた。……この娘の帳面は、俺の帳面を、いらなくするための、帳面だ」
彼は、居並ぶ者たちを、見渡した。
「許した者が、いないと言うなら。俺が、許す。軍医団長として。この十年で、百四十三の名を、数えた者として」
*
検分は、その日、結論を、出さなかった。
持ち越し、と、告げられた。
人が、引いていく広間で、エルナは、まだ、立っていた。膝が、震えていた。ずっと、こらえていたものが、いま、追いついてきた。
壁際を、見た。
ヒルダが、そこに、いた。
彼女は、泣いていなかった。憎んでも、いなかった。ただ――疲れた目で、エルナを、見ていた。その目は、何も、許して、いなかった。
当然だった。
いま、この広間で、何が、証されようと。あの人が、門の外で待った三日は、なかったことには、ならない。手を握れなかったことも。最期の言葉を、知らないことも。
ヒルダは、黙って、背を向けて、去っていった。
*
宮廷の、石段に、二人で、腰を、下ろした。
日が、傾いていた。ラインハルトは、何も、言わなかった。エルナも、しばらく、言えなかった。
「……なぜ」
やっと、それだけ、言った。
「あの手帳は。あなたが、誰にも、見せずに」
「見せた」
彼は、短く、言った。
「お前に。前に、一つだけ」
「……はい」
「一つ、語って。分かった」
ラインハルトは、傾いた日を、見ていた。
「あれは、抱えているから、重いんじゃない。誰にも、渡さんから、重いんだ」
彼は、手帳を、取り出した。
そして、エルナの、膝の上に、置いた。
エルナは、動けなかった。
「団長。これは」
「預ける」
「そんな、これは、あなたの」
「俺の帳面は、悔いるために、数えた」
彼は、言った。
「お前の帳面は、救うために、数えている。……同じものだ。数えているものが、同じだ。ただ、向きが、逆なだけだ」
彼は、立ち上がった。
「並べて、置いておけ」
一拍、間が、あった。
いつもの、あの、一拍だった。
「……俺の百四十三が、お前の帳面の隣にあれば。少しは、役に、立つかもしれん」
エルナは、その、すり切れた手帳を、両手で、抱えた。
角が、丸くなるほど、擦れていた。十年、この人が、外套の内側で、体温で、温めてきた重さだった。
温かかった。
視界が、滲んだ。
「……お預かり、します」
エルナは、言った。
「一人ずつ。……大切に、数えます」
ラインハルトは、答えなかった。
ただ、その、耳の縁が、赤かった。
第20話、ありがとうございます。ずっと書きたかった回でした。
第9話で「意味」だけを。第15話で「一つの名」だけを。そうやって少しずつ開いてきた手帳を、ラインハルトは、いちばん見せたくない場所で、全部、開きます。エルナのために。
そして彼は、それを彼女に預けます。悔いるために数えた帳面と、救うために数える帳面を、並べて置くために。
ただ――ヒルダの三日は、まだ、なかったことには、なっていません。次回、エルナは、彼女に会いに行きます。
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