第19話 黒の札
その朝、門前が、騒がしかった。
女の声だった。泣き声では、なかった。もっと、鋭い、削れた声だった。
「出しなさいよ! あの、令嬢を!」
エルナが、広間を出たとき。門の前に、痩せた女が、立っていた。四十を、いくつか越えた頃だろうか。手は、荒れて、ひび割れていた。働いてきた人の、手だった。
女は、エルナを、見た。
そして――その顔から、血の気が、引いた。憎しみで、引いたのだと、エルナには、分かった。
「あんたか」
*
「あんたが、貼ったのか。うちの人に。あの、黒い、札を」
エルナの足が、止まった。
黒の札。
赤は、すぐに手当てを。青は、少し待てる。そして、黒は――もう、手の、届かない者。静かに、看る者。
あの疫病の、峠の頃。エルナは、その札を、幾枚も、貼った。
「ヨーゼフっていうんだ。石工だよ。あんたの前を、担架で、運ばれてったんだ。……あんたは、一目、見ただけだった。一目見て、黒い札を、あの人の胸に、置いた」
女の声が、震えた。
「あたしは、外で、待ってたんだ。三日。うつるから、入るなって言われて。三日、門の外で、待った。……そんで、四日目に、教えられたよ。ゆうべ、死にましたって」
エルナは、動けなかった。
「顔も、見られなかった。手も、握れなかった。……最期に、なんて言ったのかも、知らない」
女は、一歩、踏み出した。
「あんた、あの人を、見捨てたね」
*
「――違います!」
叫んだのは、ミラだった。
小さな体で、エルナの前に、両手を、広げていた。
「エルナ様は、誰も、見捨ててません! あの時、エルナ様は、三日も、寝てなくて、それで、それで!」
「ミラ」
エルナは、その、小さな肩に、手を、置いた。
そして、女の前に、進み出た。
言い返す言葉を、探した。何も、なかった。
だって――貼ったのは、事実だった。
「……貼りました」
エルナは、言った。
「私です」
女の顔が、歪んだ。
*
人が、集まっていた。
施療院の、下働きたち。運ばれてきた者の、家族。通りがかりの、宮廷の者。その、幾十の目が、いま、エルナを、見ていた。
その目の中に、たった今、生まれたものを、エルナは、知っていた。
――あの娘は、命を、選り分けるらしい。
柔らかな声が、割って入ったのは、その時だった。
「お気の毒に」
ヴィクトルだった。
彼は、女の前に、進み出て、丁寧に、頭を下げた。筆頭医が、石工の女房に、頭を下げた。女が、驚いて、身を引いた。
「ご主人の、ヨーゼフさん。……私は、記録で、読みました。運ばれた刻、札の色、亡くなった刻。すべて、この方の、帳面に、書いてあります」
彼は、エルナを、見た。
柔らかい目だった。憎しみは、なかった。だから、なお、恐ろしかった。
「隠されては、いません。むしろ、正確に、書いてある。……お嬢さんは、嘘をつく人では、ない。ただ」
一拍。
「事実として、この方は。ご主人を、後回しに、なさった」
女の喉から、押し殺した音が、漏れた。
「私は、あなたを、責めているのではないのですよ、お嬢さん」
ヴィクトルは、穏やかに、続けた。
「ただ――誰が、決めたのですか。この人は先、この人は後、この人は、もう、いい。それを。医でもない、魔法も使えぬ、一人の下働きが。誰に、許されて」
*
その夜。
エルナは、ハンナを、探した。
ハンナは、洗い場に、いた。空の桶を、一つ、抱えたまま。何もせずに、突っ立っていた。
「ハンナさん」
ハンナの肩が、跳ねた。
振り向いた顔は、いつもの、伝法な看護人の顔では、なかった。ただの、五十一の、女の顔だった。
「……あたしはさ」
声が、掠れていた。
「あの門で、あんたが、あの女に、詰め寄られてたとき。あたしは、動けなかったんだ。ミラは、飛び出したのにさ。あの、十四の子が、飛び出したのに」
太い腕が、震えていた。
「あたしは、昔さ。……あんたと同じことを、したんだよ」
初めて、聞く話だった。
「もっと、若い頃だ。運ばれてきた男に、もう無理だって、言った。あたしが、言ったんだ。手が、足りなかったから。ほかの子が、二人、待ってたから。……その男の、女房も、外で、待ってたよ」
ハンナは、桶を、置いた。
「あたしは、あれから、三十年、選別って言葉が、憎かった。あんたが来て、色の札を作って。……あたしは、やっと、あれが、見捨てる段取りじゃないって、思えたんだ」
顔を、上げた。
「なのに、あの門で、あの女の声を聞いたら。……三十年前の、あたしが、あそこに、立ってた」
エルナは、ハンナの前に、立った。
言葉が、出なかった。
「悪かったね」
ハンナが、言った。
「あんたを、庇えなかった」
「いいえ」
エルナは、静かに、首を、振った。
「……庇わないで、ください。庇ってしまったら、あの方の三日が、なかったことに、なります」
*
三日後。
王命による、検分の、召喚状が、届いた。
名は、エルナ・フォン・グラーフェン。
問われるのは、疫病下における、患者の選別が、施療院の権限を、超えた行いでは、なかったか。
――誰が、決めたのですか。
ヴィクトルの声が、耳の奥で、繰り返した。
医でもない。魔法も、使えない。ただの、下働きが。
召喚状には、証人の欄が、あった。
そこには、まだ、誰の名も、なかった。
第19話、ありがとうございます。今回は、いちばん重たい回でした。
エルナの武器(色の札)が、初めて、彼女を刺す刃になります。しかも、ヴィクトルは嘘を一つも言っていません。エルナは、貼ったのです。それは、事実です。
だから、エルナは、言い返しません。言い返せない、のではなく――言い返してはいけない、と知っているからです。ヒルダの三日を、なかったことには、できません。
そして、次回。証人の欄に、名を書く男がいます。すり切れた手帳を持った、あの人です。
どうか、次回を、見届けてください。




