第18話 五十年、間違えた
「お嬢さんも、いらっしゃい」
ヴィクトルは、柔らかく、そう言った。
「あなたの帳面が、どう扱われるかを、見ておくといい。……勉強に、なります」
断る理由が、思いつかなかった。だから、エルナは、評議の広間の、いちばん後ろの、壁際に、立った。
立ち見の、下働きとして。
*
広間の中央に、老いた男が、一人で、立っていた。
エーミール・ケラー。白衣は、もう、まとっていない。飾りのない、地味な上着。背は、以前より、丸かった。
その周りを、居並ぶ貴族と、医たちが、囲んでいた。
最初に、口を開いたのは、恰幅のいい、宝石だらけの指を持つ男だった。フェルディナント・ダーレム侯。ケラーを、あの椅子に、押し上げた男。
「まことに、遺憾である」
侯は、重々しく、言った。
「疫病の折、この男は、死者の数を、軽く、報じた。記録を、焼こうとした。……私は、この男を、信じておった。宮廷医療の頂に、ふさわしい者だと。その私の目が、節穴であった」
――違う。
エルナは、壁際で、思った。
この人が、ケラー様に、そうさせたのに。
「幾百の民の生死である。責は、その任にあった者が、負うより、ほかにない」
侯は、そこで、初めて、ケラーを、見た。
値踏みするような、冷たい目だった。あの朝、施療院で、エルナを見たのと、同じ目だった。命の重さも、利で、量る目。
「エーミール。……何か、申すことは」
*
ケラーは、顔を、上げた。
広間の、誰もが、待った。この男が、何を言うか。誰の名を、出すか。侯を、道連れにするのか。
エルナも、待った。
ケラーは、しばらく、その、宝石だらけの指を、見ていた。
そして、言った。
「ございません」
ただ、それだけだった。
「すべて、私が、命じたことです。死者を、軽く、報じさせたのも。帳面を、焼けと、言ったのも。……この、私です」
広間が、ざわめいた。
侯の頬が、ほんの、わずかに、緩んだのを、エルナは、壁際から、見た。
*
裁定は、その日のうちに、下った。
エーミール・ケラーは、宮廷医療の、すべての職を、解かれた。今後、王都のいかなる施療の場にも、立つことを、許されない。五十年の、すべてが、消えた。
――これで。
エルナは、自分の胸に、手を、当てた。
これで、終わったはずだった。私を「下働き」と呼び、私の帳面を「下賎な雑務」と侮蔑し、燃やそうとした人が。すべてを、失った。
なのに。
胸の底に、あるのは、留飲では、なかった。もっと、重たい、苦いものだった。
*
宮廷の、長い廊下で、その背中に、追いついた。
ケラーは、一人で、歩いていた。従者も、いない。誰も、見送りに、来ていなかった。頂に、五十年、座っていた男の、最後の廊下だった。
「ケラー様」
老いた男は、足を、止めた。振り返らずに、言った。
「……お前か」
「なぜ、庇ったのですか」
エルナは、聞いた。
「あの方の名を、出せば。……あなたは」
「出したら、どうなる」
ケラーは、静かに、言った。
「私が、道連れにできるのは、せいぜい、自分の名の、残りかすだ。あの方は、落ちん。落ちる代わりに――施療院の、予算が、落ちる。布が来ん。氷が来ん。癒し手が、引き上げられる。……そうやって、あの方は、人を、飼うのだ」
エルナは、言葉を、失った。
この人は、負けたのではなかった。
最後に一度だけ、天秤に、かけたのだ。
「勘違い、するな」
ケラーは、そこで、初めて、振り返った。
「庇ったのは、お前の帳面ではない。……あそこには、まだ、寝ている者がいる。それだけだ」
老いた目が、エルナを、見ていた。
憎悪は、なかった。うろたえも、もう、なかった。ただ、五十年を、置いてきた男の、静かな目だった。
「一つ、言っておく」
「はい」
「あの男は――ラングは。私より、質が、悪い」
声が、低くなった。
「私は、数字が、読めなかった。だから、燃やすしか、なかった。燃やすのは、下手なやり方だ。灰が残る。誰かが、気づく。……だが、あれは、読める」
ケラーは、廊下の、遠くを、見た。
「読める者は、燃やさん。数え方を、変える。灰も、出ん。誰も、気づかん。……お前の帳面は、あの男の手の中では、お前を刺す刃に、なるぞ」
「……なぜ、それを、私に」
「五十年、間違えた」
老いた男は、言った。
「魔法をかければ、済むと。そう教わって、そう教えて、五十年だ。私の間違いは、私が、墓まで持っていく。……だが、あそこで寝ている者たちは、私の間違いの、続きを、引き受ける謂れは、ない」
それだけ、言った。
そして、二度と、振り返らずに、長い廊下を、去っていった。
*
馬車のところで、ラインハルトが、待っていた。
彼は、エルナの顔を、一目、見た。それだけで、何かを、察したらしかった。
「ざまぁみろとは、言わんのだな」
「……言えません」
エルナは、うつむいた。
「あの方も、教わっただけです。教わったとおりに、五十年。……教えた人たちは、もう、誰も、いません」
ラインハルトは、しばらく、黙っていた。
それから、一拍、置いて。
「そういうところだ」
と、言った。
「お前の、そういうところが」
その先を、彼は、言わなかった。
*
施療院に、戻った。
夜の、暗い広間で、ランプが、一つだけ、灯っていた。
ヴィクトルが、いた。
彼は、エルナの帳面の、写しを、開いていた。読んでいたのは、疫病の頃の、頁だった。
――黒の札を、貼った者の、記録。
柔らかな目が、その名を、一つずつ、なぞっていた。
第18話、ありがとうございます。ケラーが、退場します。
彼は「魔法をかければ済む」と教わり、そう教えて五十年を過ごした人でした。最後に、その五十年を全部かぶって、黙って去っていきます。免罪はできません。それでも、この人が最後に守ったものが、施療院の布と氷だったことだけは、書いておきたかった。
そして、ヴィクトルが読んでいるのは――「黒の札」の記録です。
エルナが、貼った札。次回、彼女は、いちばん痛いところを、突かれます。
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