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第2話 誰も数えていない

 施療院の朝は、昨夜の続きから始まる。


 夜のあいだに運ばれた者、悪くなった者、静かに息を引き取った者。誰が、いつ、どうなったのか――記録は、どこにもなかった。


 エルナは、床を拭きながら、それを見ていた。下働きの仕事は、掃除と洗濯と、水を運ぶこと。誰も、令嬢だった娘に指図などしない。放っておかれるのは、都合がよかった。


 放っておかれるあいだ、目だけは、勝手に数えている。


 入口から運ばれた順。傷の場所。癒し手が手をかざした時刻。そして――そのあと、誰が悪くなったか。


 一日、見ているだけで、分かったことがあった。


 悪くなる者には、順番がある。


 傷を塞がれたあと、隅に運ばれ、忘れられた者から悪くなる。塞ぐことと、そのあとを見ていることは、別なのだ。けれど、この施療院では、その二つが誰の仕事でもなかった。


 ――誰も、数えていない。


 だから、同じ死に方が、毎日繰り返されている。


「あんた」


 声をかけられて、顔を上げた。


 白髪を引っ詰めにした、年かさの女だった。腕まくりした太い腕。目つきは鋭い。この施療院で一番長く働いている看護人、ハンナだと、あとで知った。


「昨日から、うろちょろ何を見てる。掃除の手が止まってるよ」


「……すみません」


「令嬢さまが物珍しいのは分かるがね。ここは見世物じゃない。人が死ぬところだ」


 言葉は、棘だらけだった。けれど、その棘の奥に、疲れが見えた。長く、あきらめ続けてきた者の疲れ。


 エルナは、雑巾を置いた。そして、静かに言った。


「昨日、東の壁際で亡くなった方は、運ばれてから二刻後に容態が変わりました。誰も、そばにいませんでした」


 ハンナの眉が、ぴくりと動いた。


「……あんた、それを、見てたのかい」


「はい。数えていました」


 ハンナは、しばらく黙った。それから、鼻を鳴らして背を向けた。


「余計なことを覚えるより、床を拭きな。ここじゃ、覚えたって何も変わりゃしない」


 変わらない、と、この人は言った。


 変えようとして、変えられなくて、あきらめた人の言い方だった。


    *


 その夜、エルナは、一冊の帳面を手に入れた。


 物置の奥で見つけた、使い古しの記録帳。癒し手たちが薬の在庫を書きつけて、途中でやめたものらしい。半分から先は、白紙だった。


 ランプを一つ、灯す。


 エルナは、白紙の一枚目に、線を引いた。


 運ばれた刻。傷の場所。誰が手当てをしたか。そのあと、どうなったか。


 名前も分からない者は、寝台の位置で記した。「北三」「東窓ぎわ」。それで十分だった。大事なのは、名ではなく、いつ・どこで・何が起きたか、だ。


 書いていくうちに、数字が、静かに語りはじめた。


 悪くなる者の多くは、傷を塞がれてから一刻から二刻のあいだに、様子が変わっている。その時間に誰かが見ていれば、拾えたはずの命が――ひとつ、ふたつ、ではなかった。


 ――誰も、数えていなかっただけだ。


 エルナの指が、ランプの下で止まった。


 これは、覆せるのかもしれない。魔法がなくても。才がなくても。


「……なにしてるの?」


 小さな声がした。


 振り返ると、痩せた少女が、扉のすきまから覗いていた。十四、五だろうか。下働きの子だ。昼間、水桶を運んでいるのを見た。


「あたし、ミラ。……その帳面、なあに?」


「記録よ。誰が、いつ、どうなったか」


「ふうん」


 ミラは、するりと中へ入ってきた。物おじしない子だった。無能と呼ばれる令嬢に、はじめから警戒がない。


「あたし、足なら速いよ。それに、この建物のこと、ぜんぶ知ってる。誰がどこにいるか、言えるもん」


 エルナは、少しだけ目を見張った。


 足が速く、顔が広い。誰がどこにいるかを知っている。それは――帳面の、外に出た版だ。書いて残すことと、いま誰がどこにいるかを、つなぐ神経になる。


「ミラ。あなた、いい目をしているわ」


 ミラが、ぱっと笑った。無能扱いのエルナに向けられた、この施療院で初めての、まっすぐな笑みだった。


    *


 異変は、明け方近くに起きた。


 表が、急に騒がしくなった。馬のいななき。怒鳴り声。担架を運ぶ足音が、いくつも重なる。


 エルナは、帳面を置いて廊下へ出た。


 入口の扉が、開け放たれていた。血の匂いが、風といっしょに流れ込む。担ぎ込まれてくるのは、鎧をつけた男たち――戦線の、負傷兵だ。


 その、先頭。


 黒い外套の男が、一人の兵を肩に担いで、大股に入ってきた。


 背が高い。無駄のない、鍛えられた体。返り血をあびた顔は、まるで表情がなかった。運んできた兵を寝台に下ろすと、癒し手を一瞥し、短く言った。


「三人だ。あと、外に六人。……間に合う順に診ろ」


 冷たい声だった。感情の削げ落ちた、命令に慣れた声。


 男の視線が、一瞬、廊下のエルナをかすめた。


 けれど、それだけだった。下働きの娘。目にとめる価値もない、というように、男はすぐに背を向けた。名も、告げなかった。


 エルナも、その男が誰なのか、知らなかった。


 ただ――担ぎ込まれた兵の傷を、その男が運びながら片手で押さえていたことに、気づいた。走りながら、止血していた。誰にも言われず。


 冷たい声のわりに、と、エルナは思った。それだけだった。


 男は、また表の闇へ出ていった。


 入れ替わりに、癒し手の一人が、青い顔で走ってきた。


「大変だ……戦線が、崩れかけてる。明日、もっと来る。今夜の比じゃない数が――!」


 施療院じゅうが、ざわめいた。


 エルナは、手にした帳面を、そっと握り直した。


 明日、大量の負傷者が運ばれてくる。癒し手の手は、足りない。順番も、配置も、誰も決めていない。


 ――それなら。


 初めて、体の奥に、熱いものが灯った気がした。


 数えることしかできない娘に、明日、できることがある。


第2話、ありがとうございます。

エルナがついに「記録」を始めました。そして、名も告げずに去った軍医――彼が何者なのかは、次の話で明らかになります。

明日、施療院は最大の修羅場を迎えます。ブックマークして、続きを見守っていただけると嬉しいです。


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