第16話 新しい筆頭医
新しい筆頭医が着任する。その報せは、施療院を、静かに、ざわつかせた。
ケラーが任を解かれて、まだ、十日と、経っていない。頂の椅子は、長くは、空けておけないのだ。宮廷医療の頂に、誰が座るのか。それは、この場所の、明日の作法を、決めることだった。
「また、魔法さえかければいい、っていう手合いだろうさ」
ハンナが、寝台の敷布を、乱暴に、はたきながら、言った。
「名門から、また一人、偉いのが降りてくる。あたしらは、また、下働きだ」
エルナは、答えなかった。ただ、帳面に、その日の数を、書き入れた。運ばれた者、十一人。手当てに回した者、十一人。亡くなった者、なし。
ミラが、駆け込んできたのは、その、昼過ぎだった。
「エルナ様! 来ました、新しい筆頭医様です!」
*
その男は、静かに、入ってきた。
豪奢な白衣では、なかった。飾りのない、簡素な、灰色の外套。年の頃は、四十に、届くか、届かないか。柔らかな目をした、痩せた男だった。従者も、連れていなかった。
男は、広間に立つと、まず、寝台の数を、数えた。
エルナの、指が、止まった。
――この人は、数えた。
入ってきて、まず、人ではなく、数を、見た。それは、エルナが、ずっと、一人で、やってきたことだった。
「ヴィクトル・ラングと、申します」
男は、居並ぶ者たちに、丁寧に、頭を下げた。筆頭医が、下働きに、頭を下げた。それだけで、広間の空気が、ほどけた。
「本日より、筆頭医の任を、預かります。……その前に、一つ、お願いが」
彼は、まっすぐに、エルナを、見た。
「グラーフェンのお嬢さん。あなたの、帳面を、見せていただけませんか」
*
ヴィクトルは、台帳を、頁の端から、丁寧に、読んだ。
速かった。数字の並びを、追う目が、慣れていた。誰かに教わった読み方では、なかった。自分で、数えてきた者の、目だった。
「……素晴らしい」
彼は、心から、そう言った。
「運ばれた刻。悪くなった刻。手当てまでの、間。これを、毎日。……誰にも、命じられずに?」
「はい」
「色の札も、あなたが」
「はい。赤は、すぐに手当てを。青は、少し待てます。黒は……静かに、看る者です」
ヴィクトルは、うなずいた。侮蔑も、驚愕も、なかった。ただ、深く、うなずいた。
「合理的だ」
その一言に、ハンナが、目を丸くした。ミラが、小さく、飛び跳ねた。院長のテオドールでさえ、ほう、と、息を吐いた。
下賎な雑務と、呼ばれ続けたものが。頂に座った男の口から、たった今、合理的だ、と、呼ばれた。
それは、この施療院にとって、めでたい日の、はずだった。
*
ヴィクトルは、そのまま、寝台を、見て回った。
驚くほど、丁寧だった。屈み込んで、傷を見て、脈を取り、癒し手に、短く、指図をした。的確だった。ケラーが、一度も、しなかったことだった。
「三番の、腹の方は、明日まで、動かさぬように」
「七番の、足の方は、順を、繰り上げなさい。熱が、上がってきている」
エルナは、その後ろを、帳面を抱えて、ついて回った。
そして――途中で、気づいた。
ヴィクトルは、一度も。
誰の名も、呼ばなかった。
三番。七番。腹の方。足の方。すべて、正確だった。すべて、正しかった。寝台の番号は、間違えなかった。一つも。
エルナの帳面の、いちばん上の欄には、名前が、書いてある。
彼は、その欄を、読んだはずだった。頁の端から、丁寧に、読んだのだから。
*
なのに、エルナの胸の底には、細い、冷たいものが、残った。
うまく、言葉に、できなかった。
ケラーは、数字を、憎んだ。憎むということは、恐れるということだ。恐れるということは、数字に、力があると、認めているということだった。
この人は、恐れていない。
この人は――好きだ。数字が、好きすぎる。
*
その夜。人の引いた施療院に、黒い外套が、立っていた。
「あの男は」
ラインハルトは、それだけ言って、一拍、置いた。
「気に食わん」
「……お会いに、なりましたか」
「廊下で、すれ違った。挨拶をされた。丁寧だった」
彼は、それきり、黙った。理由を、言わなかった。この人は、いつも、そうだ。感じたことを、飾って、説明しない。ただ、短い言葉だけを、置いていく。
「団長は、なぜ」
「分からん」
ラインハルトは、施療院の暗がりを、見ていた。
「戦場で、ああいう目をした男を、何人か、見た。……あの目は、人を、見ていない。人の、勘定を、見ている」
エルナは、答えられなかった。
自分の胸の底にあった、あの、細い冷たいものに。この人が、たった今、形を、与えてしまったからだった。
*
翌朝。
ヴィクトルは、台帳の前に、立っていた。
「お嬢さん。この帳面、写しを、取らせてもらっても、いいだろうか」
柔らかい声だった。
「勉強のために。……あなたの、数え方を、私も、覚えたいのです」
エルナは、少し、迷った。
だが、断る理由が、なかった。記録は、隠すためのものでは、ない。誰でも読めるから、数字は、勝手に語るのだ。それは、エルナ自身が、ずっと、言ってきたことだった。
「……どうぞ」
ヴィクトルは、微笑んで、頭を下げた。
そして、エルナの帳面を、そっくり、抱えて。去っていった。
第16話、ありがとうございます。ここから、新しい段がはじまります。
ケラーは「魔法をかければ済む」と数字を憎んだ人でした。新しい筆頭医ヴィクトルは、その逆――数字を読み、褒め、欲しがる人です。エルナと同じ武器を持った男が、初めて、彼女の正面に立ちます。
第15話で、ダーレム侯が残していった言葉を、どうか覚えておいてください。「その数字を、誰が、飼っているかで」。
続きが気になりましたら、ブックマーク・評価をいただけると、次を書く力になります。




