第15話 数字は、勝手に語る
王の裁定は、簡潔だった。
疫病下の死者数の食い違いは、記録の杜撰ではなく、医療そのものの差から生じた――王は、そう認めた。魔法をかけたか否かではなく、分けたか、分けなかったか。数えたか、数えなかったか。その差が、幾百の生死を、分けた。
筆頭医エーミール・ケラーは、その責を問われた。
疫病を「軽微」と偽り、生存の差を隠し、記録を焼こうとしたこと。それらが、王の勘定を、危うくした。ケラーは、筆頭医の任を、解かれた。宮廷医療の頂に長く君臨した男の、権威が、崩れはじめた瞬間だった。
だが――それは、完全な失脚ではなかった。
解かれたのは、任だけだった。ケラーの背後には、まだ、彼を筆頭医の座に押し上げた、太い、見えない手があった。その手が、彼を、完全には、落とさせなかった。
*
裁定が下った日、ケラーは、施療院に、最後に一度、現れた。
豪奢だった白衣は、もう、まとっていなかった。ただの、老いた医者の姿で、彼は、エルナの前に、立った。
「……お前の、帳面か」
声に、かつての権威は、なかった。
「魔法も使えぬ、下働きの娘に。私は、負けたのか」
「いいえ」
エルナは、静かに、首を振った。
「あなたは、私に負けたのではありません。……数字に、負けたのです。数字は、私のものではありません。誰が、いつ、どうなったか。それは、ただ、起きた事実です。私は、それを、書き写しただけです」
ケラーは、しばらく、エルナを見ていた。
憎しみを、ぶつけてくるかと思った。だが、老いた男の目にあったのは、憎悪ではなく、もっと、うろたえた、寄る辺のなさだった。信じてきたものが、足元から崩れた者の。
「……魔法をかければ、済むと。私は、そう教わって、そう教えて、五十年、生きてきた」
彼は、それだけ、つぶやいた。
そして、背を向けた。去り際、ふと、足を止め、こちらを見ずに、言った。
「気を、つけろ。……私を、あの座に据えた者が、いる。その者は、お前の帳面を、私よりも、疎ましく思うだろう。命より、利を、数える男だ」
それだけ言い残して、ケラーは、去っていった。
命より、利を、数える男。
エルナは、その言葉を、静かに、心に留めた。ケラーは、権威の頂点だと思っていた。だが、その頂の、さらに上に、顔の見えない、もう一つの影が、あった。
*
施療院には、変化が、訪れた。
王命により、隔離・記録・選別――エルナが作り上げた「段取り」が、宮廷施療院の、正式な決まりとして、認められた。色の札。台帳。動線。それらは、もう、下賎な雑務では、なかった。次に病が来たとき、幾人かを、確かに生かすための、仕組みだった。
テオドール院長は、その報せを聞いて、深く、うなずいた。
「アガーテが、生きておれば、喜んだろうな」
祖母の名だった。エルナは、胸の奥が、静かに温かくなるのを、感じた。膝に乗せてくれた、あの人。「よく見える目だよ」と言ってくれた、あの人。その人の見ていたものが、いま、初めて、世の中に、形を持った。
ミラが、色札の束を抱えて、施療院を、駆け回っていた。ハンナが、太い腕で、寝台を運んでいた。かつて、無能と呼ばれた娘の、居場所は――もう、誰にも、揺るがせられないものに、なっていた。
*
その夜。
人の引いた施療院で、エルナは、いつものように、帳面を、つけていた。
黒い外套の男が、隣に、腰を下ろした。ラインハルトだった。彼は、しばらく、何も言わずに、エルナの手元を見ていた。それから、外套の内側から、あの、すり切れた手帳を、取り出した。
「一つ、聞くか」
「……はい?」
「ここに、書いてある名の、一つだ」
彼は、手帳を、開かなかった。ただ、その表紙に、指を置いたまま、静かに、語った。
「ヨナス、という。十六だった。俺の隊で、いちばん、若かった。……腹を、やられてな。助からんと、判じた。手が、足りなかった。俺は、あいつを、後回しにした。そのあいだに、あいつは、死んだ」
声は、淡々としていた。だが、その淡々のなかに、十年分の、重さがあった。
「もし、あのとき」
彼は、エルナの帳面を、見た。
「あのとき、お前がいたら。あいつは、"赤の札"だったかもしれん。……先に、診られたかもしれん。俺が、悔いるために数えてきた名の、いくつかは。お前の段取りなら、救うために、数えられたのかもしれん」
エルナは、その手帳を、見つめた。
全部の名を、彼は、まだ、見せなかった。開かなかった。けれど、その一つを――ヨナスという、十六の少年の名を、初めて、他人に、語った。
それが、どれほどのことか。エルナには、分かった。
「その方の名前を」
エルナは、静かに言った。
「私に、教えてくださって、ありがとうございます。……私は、あなたが、悔いてきた名を、これから、一人でも、救う側に、変えられたら。そう、思います。一緒に」
ラインハルトは、しばらく、エルナを見ていた。
そして、手帳を、そっと、しまった。返事は、なかった。けれど、その、一拍の間が――前より、少しだけ、近かった。
窓の外に、月が、出ていた。
*
翌朝、施療院に、一台の、豪奢な馬車が、止まった。
降りてきたのは、見たこともない、恰幅のいい貴族だった。上等な外套。指には、いくつもの、宝石。従者を幾人も従え、施療院を、まるで、値踏みするように、見回した。
その男が、正式な決まりとなった色札の一枚を、指で、つまみ上げた。そして、つまらなそうに、それを、床に、落とした。
「これが、王のお気に召したという、"段取り"か」
男の目が、進み出たエルナを、とらえた。品定めするような、冷たい目だった。命の重さも、利で、量る目だった。
「フェルディナント・ダーレム。この施療院の、予算を、預かる者だ。……覚えておくといい、お嬢さん。数字は、勝手に語る、と言ったそうだが」
男は、薄く、笑った。
「その数字を、誰が、飼っているかで。語る中身は、いくらでも、変わるのだよ」
第15話、ここまでお読みくださって、本当にありがとうございます。第二の大きな区切りをお届けしました。
数字は、ついに、権威を崩しました。ですが、エルナは最後まで叫びません。ただ、事実を置くだけです。そして、ケラーの背後にいた、もっと大きな影――ダーレム侯が、姿を現しました。物語は、ここから、次の段へ向かいます。
ラインハルトが、初めて名を語った"ヨナス"のこと。彼の手帳の"全部"が明かされる日も、そう遠くありません。
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