36,母の形見
母の葬儀が終わり、忌引が明けて勤務を再開してからも、折に触れて母への思いが募り、様々な場面に際しては、私はいちいち涙に暮れていた。
仕事帰りに保育園にわが子を迎えに行き、二階の保育室に向かう階段を昇りながら、行き交う人もなく自分一人だと感じると、必ず思いを馳せるのは母であった。
半べそ状態でグスグス鼻をすすりながら、ノロノロとお帰りのお支度をする。
帰宅後は、自らの左手の薬指にはめてある、金のシンプルな作りの指輪がおさんどんの最中に目に留まり、じわじわと悲しみの感情が押し寄せる。
一応の母の形見分けという事で、私は母の結婚指輪を貰っていたのだった。
何をどう思ったのか、もっと生きたかったであろう母の、たった五十五年の生涯を、これからは私が引き継ぐのだ。と胸を熱くしていた。
若い身空でふるさとを遠く離れ、夫だけを頼りに、人生の荒波に身を投じた母。
信じようと固く誓った物が、蓋を開けてみると実は何の実態もなく、空虚で掴みどころも無く、頼りないだけでなく、不当に自分の立場を落としめはずかしめるだけの、恐怖と不快感に満ちた生き地獄に過ぎなかったという悲惨な事実を察してから、一体母は何十年、ひたすら耐え忍んで生きながらえていたのだろう。
そんな風に思いを馳せれば馳せるほど、母が気の毒に思えて、母の代わりに私が、これからは幸せに生きなければならない。母の分まで。と強く感じていた。
私が幸せに、生きたい様に生きれば、それが母への供養になると信じていたのだ。
「私はあんたみたいな母親にはならない!」
たしか中学生の頃、思春期の子供の典型の様に、そんな言葉の刃を母に突き付けていた事も思い出していた。
私は自分の思い通りに生きる。誰の指図にも脅しにも屈しない!
母が、大学生になった私に向かって、「女の子だって経済力は絶対に持っていた方がいい。」と、安定した公務員の職業を勧めていた事も、ずるずると芋づる式に思い出された。
自分の置かれた場所がいかに厳しい所でも、ひたすら堪え、耐え忍んでその場所に居続けた母であった。
今の時代であったら、何がなんでも職を得て、或いは福祉の力にすがって、とにかく家を出る、という選択肢が一番有力かつ賢明であると思う。
ただ、時代という大きな縛りと、何より母自身の並外れた忍耐強さとで、跡継ぎ不在の、名家の長男宅の嫁という、不名誉と言うのもはばかられる位の、ナンセンスなレッテルを貼られるがままに、鎌倉の薄暗い谷戸の入口の家に幽閉されていたのだ。
それほど辛い立場に置かれても、たったの一度も、決して指輪を外そうとしなかった母。
母の気持ちを少しは体感できるのかも知れないという期待もあって、私は普段自分の結婚指輪もはめていない左手に、朝も夜も母の形見を着けて生活をしていた。




