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32,泣き言


鎌倉の実家のお隣さんは、手付かずの雑木林がどこまでも延々と広がっている様な土地だった。






二階の座敷の窓や、庭のフェンス越しにつくづく眺めても、人の気配ひとつ感じる機会のない林が広がっていた。






必要以上に人の手が加えられていない自然空間は、少し怖い様な気もして、妹と戯れにバドミントンをしてシャトルがお隣の敷地に飛んでいってしまった時など、フェンスを乗り越えて、我が家の庭より少し低くなっていた土地に飛び降りる事が、意外に勇気を要したものだった。






さて、その日私は、固定電話の子機を握りしめて、二階のトイレにこもっていた。






座敷の並びに作り付けられたトイレだったので、窓の向こうにいつも通りの林が、すました顔で秋の風を吹き抜かせているのが感じ取れる。






ところがその日の私には、見慣れた木々の風景を見下ろすだけの心の余裕は全く持てていなかった。






子機で電話をかけた相手に対して、次から次へと、心に溢れかえった泣き言を、吐き出し続けていたのだった。






母が息を引き取るまで、自分には数日間しか時間が与えられなかった事。






母が最期まで苦しみ抜いて闘った病室で、いよいよ意識が遠のいていく母の耳元で、逝かないで、帰って来てと自分一人がいつまでも叫んでいた事。






とうとう慰安室へと運び出されて行った母の病室に一人残され、戸棚の中の私物を回収して来るようにと言われ、たった一人、今の今までここで頑張っていた母の身体の重みの跡が生々しくシーツのくぼみに残っているベッドのそばで、動けずにずっと佇んでいた気持ちの事。






医師による、臨終確認を聞くなり、やおらメモ用紙を取り出して、遺族にあれこれ買い物の指示をする伯母に違和感を覚えた事。






病室の私物に関する最終確認の役目を私に指示したのも伯母であった。






嗚咽を漏らしながらも、尚もトイレの中から発信される泣き言は続く。






あの時ほど、伯母を強い人だと思った事はなかった。






脱脂綿、白い布、ガーゼなど、仮通夜に早々に必要になる細々とした物の準備の割り振りを、冷静に伯母は行っていたのだ。






まるで鬼の様な人だと心から感じた。と。






それもそのはず、知らされていなかったのは私だけで、ほかの親戚は全員、だいぶ前から母の余命について承知していたのだ。と。






学生時代から、姉妹の様になんでも話し、お互いに励まし合いながら付き合って来た親友の麻衣子ちゃんは、長々と、私の突然の泣き言に耳を傾けて、親身になって聞いてくれた。






麻衣子ちゃんの母親も、その5年ほど前にご病気で亡くなられていた。






「母親を病気で亡くすなんて、私だけで十分だと思ってた。」






麻衣子ちゃんはそう言って、一緒に泣いてくれていた。






一時間近く、そうしていたのだろう。






一旦辛さを訴え終えた私は、子機を充電台に戻して、親戚が集まっている階下に降りて行った。






「何をトイレで話しとったん?




さっき探しに上に行ったんよ。」






伯母がすかさず話しかけて来た。






「誰も教えてくれんかった言うて、わあわあ泣いとったんね。」






心のバランスを保つ事に、全神経を集中させていないと、その場にいる事さえ不可能になってしまうであろう私は、たまらず、いとこの知恵ちゃんに言葉をかけた。






「ちょっと相談したい事があるんだけど、二階の部屋に来て貰える?」






親戚の皆さんの食事の準備などで忙しく立ち働いている知恵ちゃんは、子供の頃から変わらず、気配りの出来る根っからの働き者だ。






それでも、私の切羽詰まった顔色を見て、「ええよ。すぐ行くわ。」






そう言ってくれた。



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