31,ひねくれ者
年子で、続けて三人の子供たちを授かっていた私は、ありがたい事に出産にあたって大きなトラブルはなく、三人目の時などはお産が順調に進み過ぎて、分娩室への到着を待たずして産院の廊下で生まれ落ちそうになる勢いであった程だった。
その末っ子が、生後3ヶ月を迎えた頃のある夜、すこぶる珍しく、父からの電話が入った。
携帯電話なるものは一般人にとってはまだまだ絵に描いた餅であった時代、赤子の授乳やオムツ替え、沐浴まで一人でこなし、オマケに、育児休暇期間中という訳で保育園への入園措置が切られてしまった上の子達の食事やトイトレ、外遊びの時間の確保なども私の肩にのしかかって来ていた日々での、とある夜。
突然鳴り響いた固定電話のベルに、不思議なことにちょうど手が空いていた私は、受話器を手に取りやすい場所にいて、1〜2回の呼び出し音の後、電話に出る事が出来た。
父の声が電話の向こうから聞こえて来た時、一瞬頭の中は混乱して気持ちはひるんでいた。
母の身に、何か変化があったのではないか?
そんな私の動揺に気付く由もなく、あるいは気付かないふりをしていたのか、構わず父は喋り続けた。
「あと三日後に、みち子は亡くなるんだ。」
意識して力強い声を発しているのかとも感じられる、元気な声だ。
娘にこんな事は知らせたくない、しかし現実は知らせなくてはならない。
苦しいジレンマの中、その役目を果たすのは自分だけなのだという自信の様な雰囲気を、父の声や語り口から、私は瞬時に受け取っていた。
私に電話などかけて来る事は皆無であったのに、初めてかけて来た内容を聞けば、三日後にうんぬん、とはなんという侮辱!
根っからのひねくれ者である私は、知らせてくれた有り難さより、自分の価値観とあまりにもかけ離れた父の在り方に、腹を立てていた。
この人はいつもこうだ。
あと3日で亡くなるって言ったって、3日で一体私たちに何が出来ると言うのだ!!
いつもワンマンで、人の言葉に耳を傾けた事など一度もなかった。
自分のやりたい様にことを進め、文句のある人間は切り捨てるくらいの激しさと冷たさを持って、厳しい社会を乗り切って来たのであろう父だった。
それは身に染みてわかっていたが、今回は家族に関する事だ。ましてや、あなたの妻であるだけではなく、私の母の生き死にに関する内容だ。
なぜもっと早く、知らせてくれなかったのだ。
残された余命を、家族での温かい思い出で満たしてあげる事が出来たのではないか?
いくらなんでも三日間では、何一つしてあげられないではないか!
父は一体どういう了見でいるのか、理解に苦しむばかりで、心は乱れる一方。脳内は、前述の通りに取り乱していた訳であるが、実際には私はその醜態を一切表には現さない。
声色一つ変えず、落ち着き払ってこう言ったのだった。
「知ってたよ。」
そして、少なからず驚いて言葉に詰まっていたと思われる父に向かって、
「今まで何もお手伝い出来なくて、ごめんなさい。」
と、今度は私の方がお腹に力を込めて、はっきりした声で言い放った。
もちろん、本当は知ってなんていなかった。
お手伝い出来ないのは本当に心苦しかったけど、実際日々忙殺されて、気持ちはあっても身動きが取れなかった。
母が入退院を繰り返している事は聞いていた。
二人目の子供が生まれた時などは、生後二ヶ月くらいの時に、思い切って車を運転し、入院中の母に会わせに連れて行った事もあった。
母はそれは喜んで、大切そうに赤子を抱いて、いつまでも愛おしそうに見つめていたっけ。
そんな楽しい思いを、たくさんたくさん共有したかった。
子供の頃、散々わがまま放題をやった事への、罪滅ぼしの様な気持ちもあったと思う。
入院前の母とは、お座りが出来る様になったばかりの長女を連れて実家にしばしば顔を出しては、穏やかな時間を一緒に過ごしていたものだった。
それなのに、3日?3日後って?
その電話を、どんな言葉で切ったのか全然覚えていない。
ベビーベッドでぐずり始めた赤子のそばに歩み寄り、いつもの様にお世話をしながらも、「3日間」という言葉が、いつまでも頭上にグルグル回り続けている感じがしていた。
みんなはどうなんだろう?
母の近親者もみんな、知らされていなかったのだろうか?
桂子おばちゃん、和子おばちゃん、すみ子おばあちゃん。いとこたち。
妹。妹はどうなんだろう?
混乱仕切った頭で、私はテーブルに書類を広げた。
育休終了を控え、職場に提出する書類作成のミッションがあったのだ。
心臓の音がドキドキと鳴り響いている様な感覚の中で、正座をして、敢えて冷静に事務的な作業に身を投じる。
人間の、自衛的な性に典型的に支配されるに身を任せて、何とかやり過ごしたとしか考えられない一夜であった。




