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29,伏線と回収


母が三日三晩泣き続けていたのは、私が小学校の中学年くらいの時だった。






結局、事の詳細は知る由もなく、いたずらに時は流れ、記憶自体も薄れて行った。






しかしそれから十五年余りが経った後、決定的な出来事が起こり、いやでも当時のエピソードを思い出し、結び付けて考えさせられる事態となった。






私は、就職をして経済的に自立し、なおかつ、まもなく結婚をして新たな人生のスタートを切ろうとしていた。






そんなある時、母が私の部屋にいきなり飛び込んで来た。






目に涙をためている。






「じゃあ、二人で家出て、アパートで暮らそうか?」






唐突にそんな事を口走った。






だが、私にはわかっていた。






階下の居間で、さんざ父親に責め立てられて来たのであろう。






私が学生生活を終え、家を出る方向に動き出した頃から、父親があからさまに機嫌を損ねる回数が増えて来ている事には気が付いていた。






面と向かって娘には話をして来ないものの、その思いの強さは滲み出ており、いやでも伝わって来た。






長子のお前が家を出て行ったら、この家の跡継ぎはどうなるのだ。






弟の所の息子に、吉川を継がせるなど、とんでもない事だ。






親父は、長男のこのわしに家を継がせる為に、この鎌倉の家を丸ごと残してくれたのだ。




今更、跡継ぎ不在などと、弟達に言える訳がない。






親父の世話を放っぽり出して施設に入れた挙句、娘に跡継ぎの婿の一人も取らせられない無能な妻だとは思わなかった。






日頃から父の怒号は家中に響いていたので、言い分はそのあたりの内容だったという事は承知していた。






しかし、長子が女子であった事も、家を継ぐ婿を取らない事も、結婚して家を出て行く事も、私には何ら非のある事ではないと思われた。






父が長男として生を受けた事を含めて、全ての事は、誰の責任でも非でも有り得なかった。






その様な事で、母や、娘である私を責め立てるという行為は、稚拙で、人間として恥ずべき事ではないのか?






強くそう感じた私は、父を避ける様になっていた。






着々と、自分の人生の青写真を写し出し、力強く歩み出そうとしていた時に、母が飛び込んで来た。






「じゃあ、二人で家出て、アパートで暮らそうか?」






父に、出て行けと言われたのだろう。






諸悪の根源である、女子の長子と一緒にまとめてわしの目の前から消えてくれ。






その流れを受け、母の言葉の冒頭に、「じゃあ、」という前置きが付いた訳だ。






跡継ぎの男子を産まなかった役立たずの嫁の存在価値など、無いに等しいという見解を、結局父は長年持ち続けて暮らして来たのだ。






全てを理解していて、母の立場の理不尽さにも思いを馳せた上で、私は母に言葉を返した。






「何言ってんの?私関係ないでしょ。」






「でも、パパが…」






続きは聞きたくない。




泣いている母に強い調子で畳み掛けた。






「ちゃんとやってよ。夫婦でしょ。」






しばらく黙って立ちすくんだ後、母はそのまま階下に降りて行った。






(今更、助けを求めに来るなんて。)






私の頭に、十五年余前の、あの場面が蘇った。






どうしたの、なぜ泣いてるのと問いかける私に、何も話してくれなかったじゃないか。






私の事は信用していなかったのではなかったのか。






私がどれほど寂しく、口惜しい思いをしたと思ってるんだ。






私は私の道を、自分で歩いて行くんだ。






その日の出来事は、一日も早く家を出たいという思いを決定的にする結果となり、そもそもそのつもりはないが、ますますこんな家の名前など継ぐ気は全くもって持てないと考える様になって行ったのだった。



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