23,はだかんぼうのヒーロー
お風呂上がりに髪を乾かす手順が、我が家では少しばかり面倒であった。
家庭用ホットカーラー機、という体の代物を使うのだ。
本来は、髪の毛にカーラーを巻き付けて、大きなビニールキャップをすっぽり被り、機械のスイッチを入れて風を送って使う物だ。
ホースを通ってキャップの中に温風が吹き込まれ、髪の毛をカールさせる仕組みで、母がオシャレをする時に良く使っていた。
我が家では、オシャレをする以外に、ドライヤー代わりとして使用していた時期があった。
お風呂上がりに、パッとキャップを被り、スイッチを入れて10分程じっといれば、髪が乾く。
当時は子供が片手で持つには重いドライヤーを、私が器用に扱う事は難しかったため、ホットカーラーのキャップに白羽の矢が当たったのだろう。
10分間、キャップのホースに繋がれて自由を奪われるのだが、それはそれで面白がって、ブーブー言う機械音を鳴らしながらボーっと座っていたものだった。
ただ、キャップを被るまでの手間が意外と面倒くさい。
まず、鏡台の下の、ホットカーラー機の収納場所から、力を込めて取り出す。
次に、ケースの留め口を操作してケースを開ける。
ビニールキャップを取り出し、送風用ホースを取り付ける。
キャップを広げて、頭全体をおおうようにして被る。
機械のスイッチを押して、送風を開始する。
尚、この時、風の温度を設定する事が大事で、お風呂上がりで暑い時には、温風ではなく送風にする必要があった。
ある日の夜、私はいつもの様に、前述のヘアードライの儀式を執り行っていた。
すると、たくさんの手順を粛々と追っている私の目の前を、疾風のように駆け抜ける父の姿が目に写った。
2DKの狭小社宅の一室にはおよそ似つかわしくないスピード感を持って、父は私の目の前を走り抜け、窓際に置いてあった灯油ストーブに突進した。
何が起こっているのか全く理解出来なかったが、入浴後の父がはだかんぼうのままである事が、事の重大さを示唆していた。
脱衣所のスペースひとつ満足に確保できない、狭小の社宅であったからこその幸運とも言えるかも知れない出来事が起こっていたのだった。
入浴後、ダイレクトに廊下に出てバスタオルを使ったり着衣をしたりするのが習わしだった我が家で、その日も父はバスタオルで身体を拭こうとしていた。
廊下の先に、ダイニングルームが見えている。
父の目に写る、炎。
母が灯油ストーブの火の調整をしていた際に、すぐそばにあるカーテンに触れ、燃え移り始めていた瞬間だったのだ。
若かりし父は、身体が瞬時に反応して、バスタオルを振り落とす勢いで駆けつけ、見事、ボヤを未然に防いだのだった。
スーパーマンみたい。バスタオルのマントは落っこちちゃったけど。
取り乱して慌てふためいている母を尻目に、私は父への賞賛と尊敬の思いに酔っていた。
いつ何時も、的確な判断を下す父であった。
母が指に怪我を負った時も、父の判断は実に迅速だった。
休日のお昼ご飯に、ザルそばを子供に食べさせようとした母が、つけ汁のお出汁を取るために、鰹節削りの道具を使って鰹節を削っていた。
普段から鰹節を削る所を見るのが好きだった私は、その日も母の手元を興味深く観察していた。
母が鰹節を握った手を前後させる度に、鋭い刃で削られ、サクッサクッと清々しい音がして、木の箱の中に削り節が溜まっていくのがわかった。
いい匂い。
「お腹空いた〜。」と思わず叫んだのだが、まさかそれを合図にした訳でもなかろうに、母が不意に鰹節を持っていた手を頭上に上げ、もう一方の手で押さえるような仕草をした。
鰹節は無造作に放り投げられた格好だ。
何事かと戸惑う間もなく、父が母に駆け寄り、事態を把握した。
「病院に行く。」と父。
「二人で留守番してなさい。」と右手を上げて左手で指のあたりを押さえたままの母。
まんじりともせず妹と二人、静かに待っていると、間もなく両親は帰って来た。
母は右手の指に、白い包帯をグルグル巻いていた。
この時になって初めて、(ママ、鰹節削りで、指を切っちゃったのか。)と気付いた。
それほどまでに、父の対応は迅速であった。
怪我は大事には至らず、外科的処置の必要はなかった。
ただ、出血がなかなか止まらないという事で、止血剤を打ってもらって来たという話だった。
9歳も年下の母が、父は可愛くて仕方がなかったのかも知れない。
心配でたまらず、タクシーで総合病院の救急外来に乗り付けたのだろう。
血液製剤を打ってもらった。
出血は止まった。
外科的処置の必要もなかった。
父は安心したであろう。
ただ、当時、血液製剤の安全性に関しては、まだまだ発展途上であったのだ。
トラブルを含み持っている血液製剤に当たってしまう確率は、宝くじに当たる事よりも滅法高かったのではないだろうか。
ガラポンで当たるなら嬉しいものの、母は、あろう事か、この時の止血剤によって、C型肝炎という病気を引き当ててしまう事になる。
父が、母をこの上なく大事に思うあまりの尊い行動が引き起こした、現実なのであった。




