六日の日 1
六日の日
自分の眼に何が映っているのか、それを問いただしたことはなかった。
いつも黒く淀んだ瞳が鏡の目の前にあって、俺はそれを茫然と覗くだけだった。
今日も重たい体を起き上がらせ、洗面台に向かう。水をじゃばじゃばと流して、冷たく気持ちいい水を感じる。
顔を洗ってタオルで拭いた。顔をあげるとそこには自分の顔があって、自分のものではない顔があった。
瞳の色が違っていた。黒いが、淀んでいない、濁っていない、澄んだ真黒な瞳だった。
何もかもを見通せそうな瞳は俺自身を見つめていた。
それを確かめて、木製の床の廊下を軋む音を立てながら歩いた。
台所にはいつもと同じく母さんの後姿があった。小さくて一見は弱そうに見えるけど、俺の眼には、母さんの背中は色々なものを背負っている強い心が見えた。それを俺はこの一週間弱で感じた。
テーブルに着くと、漬物の酸味の効いた酸っぱい匂いと、温かい湯気と供に流れるみそ汁の味噌の匂いが立ち込めていた。炊き立ての白米が光っていて、俺はもうこのご飯が食べれなくなると思うと悲しい感じがした。
けれど次に帰ってくれば、また食べられるはずだ。今度はもっとすがすがしい気分でご飯を思いっ切り食べたい、そう俺は思った。
いつもと同じように母さんとご飯を食べた。
「俺、今日の夜に向こうに行くよ」食べながら俺はそう言った。
『向こうに帰る』ではなく『向こうに行く』と言ったのは帰る場所は結局ここだという自分自身の気持ちの表れかもしれない。そこまで俺もこだわったつもりはない。母さんも、
「そうかい。寂しくなるね」そうとだけ言った。
そういえば俺は帰ってからというものの、ずっと出かけていて、母さんに何一つ自分の話をしたこともないし、母さんの話を聞いたことがなかった。
もっと大事なものがそこにあるという事を俺は忘れていた。
こういう事は後になってから気づくものだと思った。けれど次はきっと…。
「ごちそうさま」
箸をおいた。
「一矢準備しなよ。今日は忙しいからね」
「うん、母さん」
俺はそのまま法事が終わったら帰るつもりだ。大きな荷物も整理していかなければならない。食事の片づけを最後位はと思ってやろうとしたけれど、母さんが気を配って、無理に一人でやろうとしていた。その姿が少し子供っぽい意地の張り方で少し微笑ましく思った。
「さあ行こう」
俺は今から人生のターニングポイントを迎えなければならないと心構えをした。
胸に抱いた思いをこぼさず、抱えて、そして白いワゴン車で送られた。
町内にある日蓮宗の寺院に着いた。豪奢でもなく、貧層でもなく、それでもしっかりとした佇まいのその寺院は俺をしっかり待ち構えていた。
杉の木が庭に伸びていて、その周りには砂利と、大きな石とが並べられていて俺を向かいいれた。
車を止めて、送ってもらった向かいに住む年上のお兄さんに礼を言って降りた。
すぐにそこの住職が来て、俺達を案内した。
中は俺が普段立ち入れない聖域のような趣がして、乏しいながらもその外見に圧倒された。
寺というものはこういう所なのか。俺は今まで何度もここへきているが、そう感じたのは初めてだった。
俺の親族が並んだ。滅多に見かけない人が多く、自分の親族であるのかもわからなかった。別に誰が誰だってよかった。俺にとっては、父さんの子であることだけが、今この場で一番大事な事だから。
そこに二十人位が集まって、畳の大広間の何か仏教的なものが沢山位置している所を中心として、その目の前にお約束のつるつるの住職、木魚、それを囲んで、小さな椅子が並べられた所へ一人一人腰掛けた。決まっているのかどうか知らなかったが、室内に入って右側が女性、左側に男性が座っていた。
中心を隔てて、目の前に母さんが座ってこちらを見ている。その顔はどこか心配そうな顔をしていた。
大丈夫だよ、すぐに終わる。
俺はそう心で語らった。
椅子の上に元々置いてあった、心経などのお経が沢山乗っている古びた書物があって、皆それを片手に、住職の方を見ていた。
そしてじきにお経を唱え始めた。
ぽくぽくとなる木魚は、サイズが大きかったので音が大きかった。
周囲を見渡すと先程の書物を手に取り、それを見つめている人が多かった。そしてにわかに口を動かし、住職の唱えに合わせる。
そして最後に母さんを見た。目を閉じていた。閉じている目元には皺が寄って、きつく閉じている様子が見て取れた。俺はそれを確認したのちに、仏壇のある方を見た。蝋燭に何本も火が灯っていた。
そして眼を閉じた。
すると周りからは音が消えたような感じがして、だんだんと先程の木魚の音も聞こえなくなった。そしてだんだんと目の前に白い人型が筒っているような気がして、眼を閉じたまま心の中で問いかけた。
『父さん?』
返事はなかった。けれども微かに蠢いた気がして俺はそのまま続けた。
『父さん?父さんなんだね?俺、今日話があってここに来たんだ。しっかり聞いてくれる?』
また微かに光が蝋燭に灯った火のようにぼんやりと動いた。
深呼吸をして心を落ち着けた。元々落ち着いていた。今日俺は、父さんに話さなきゃいけないことがあった。
胸に残っているすべてを。




