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なにもない六日の日  作者: 水無月旬
五日の日
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五日の日


 四月五日がやってきた。

 昨日、夜遅くにこの川根の実家に帰っていて、今まで寝ていた。

 それでも時刻は早くて午前八時を回った時だった。

 夢を見ていた。まただ。

 それに昨日電車で思い出した記憶と交差している。

 息が少しあらぶっていて、胸の動悸がする。寝巻の背中には嫌な汗が流れていて、しだいに渇き始めて肌寒い。

 住み心地がいい畳の床も今はしんみりとしていて、そして何より俺の栄を吸い取ってしまっているかのようだった。

 重たい体を起こし、台所へと向かうと母さんがいた。

 夢の中で見た彼女は今よりずっと若かったが、今よりずっと弱っていた。

 顔を洗わずにテーブルについて朝食ができるのを待っていた。台所では漬物の少し酸味のきいた匂いと、みそ汁を作る暖かな味噌の匂いが立ち込めていた。

 昔からここはこの匂いがした。十年前の明日の日もそうだった。

 朝食ができたようで母さんは俺の茶碗に白米を盛る。茶色いお椀にみそ汁を盛る。湯気が立ち込めてあたたかな食事だった。

 母さんもテーブルに着くと食べ始めた。二人とも無言で、白米をかきこんだ。

 すると母さんが飯を食べながら言ってきた。

「明日は法事だからね」

 わかりきっている事だった。だから俺は「うん」とだけ返事をした。

 そして母さんは続けた。

「明日帰るんでしょう?」声が少ししゃがれていて、暗く、寂しげな声だった。

 そして俺は頷いた。

「うん」

 温かいみそ汁の湯気の前には俺の顔を見ないで話す母さんの顔があって、俺はそれを見つめていた。まだ帰る時ではないのに、俺は今週の事を思い出していた。

 東條美月を取り巻いたあの事件。何もないと思っていたものの背景にいろんな感情が渦巻いていた。それを昨日はっきりさせた。

 そして俺はふと頭に何かを投げつけられたような気がした。


『結局、俺は何をしにここへ来たのだろう…』


 東條尋の存在を見つけるため?いやそれは後になってついてきたものだ。それじゃあ、作家、東條美月の真相を突き止めるため?

 はたしてどうなのだろう。俺はそう考えるしかなかった。衝動的に動き出したものには必ず理由があるはずだ。

 それとも俺はまだ、死んでも尚、東條美月にすがっていたのか。

 俺は箸を止めて考えていた。

 周りから音を消して、考え込んでいた。前方で声がすることにも気づかないでそうしていた。

 母さんの言葉に気が付いたのはずいぶんと後の事だった。

「一矢や、一矢や」

「何?」

「明日は法事をした後にすぐ帰るのだろう?だったら、今日のうちに美月ちゃんの所へ行っておきなさい」

 俺はしっかりとした返事ができなかった。なぜなら、俺は彼女の前にどういう心持ちで行けばいいのかわからなかった。

 あのあとがき文を信じて、彼女に会いに行けばいいのか、それとも謝ればいいのか…。

 けれど行くしかないとは思っていた。法事が終わってからでは行くのが遅すぎる。俺はなんとしても今年に彼女の前へ行かなければならないと思っていた。

 一回だけ彼女と行ったことの事のある、彼女と、彼女の母親の墓地へと。



 俺はいつもと同じように白いワゴン車を走らせていた。

 行き先は俺の家のある集落から一つ山を越えた先にある集落の近くにある墓地、のはずだった。

 けれども俺は別の場所へ行こうとしている。そこはその集落から別の道から北側に進めた先にある大井川の大きなダムだった。

 轟々と流れる大井川の音を聞いて、車を降りた。

 そして、俺はダムのてっぺんにある橋を渡って、二十一歩歩き出した。同じ歩幅で、一歩、二歩。

 そしてその先にあったのは、四月一日に来た、少し高さの変わっているダムの柵だった。コンクリートの色が少しだけ高くなっている数センチ先の壁には、大きく揺るがないものがあった。何かに混じった感情と、その先に踏み出せない俺との壁があった。

 ここまで彼女と、俺との間には感情の壁があるのかと思い知らされている気がした。俺には結局何故彼女が自殺したのかが理解できなかった。

 それでも何かがつかめそうな気がしている。だから俺は今日この場所へ来た。ここに来れば何かが分かるのかもしれない。

 だけど、この壁を越えると、目の前にある轟々と流れる川へ飛び越えてしまいそうな気がして結局俺は踏み留めようとする。

 情けない自分がこれほど嫌だと思ったことはない。

 俺はそのあと、なにがなんでもあの壁を越える以外の方法で、つかみたいものがあった。

 ダムのすぐ近くにある、昔死んだ俺の父さんが働いていたダムの制御室へ行った。

 制御室に入るドアを開けて中を覗く。

 そこには休みの日であるのに、今日も数人の人が働いていた。そこには昔の顔なじみの人がいた。俺はその人に声をかけることにした。その人は恐らく生きていたのなら俺の父と同じくらいの齢で、グレーに黄ばんだ色が入っている作業服を着た人だった。

「すみません」そう声をかけると、もの珍しそうに俺を見る従業員が少なくなかった。

 そうすると、俺の顔を知っているその黄ばんだ作業着を着ているオジサンが俺の方へ近づいてきて驚いたような顔をする。

「君、市野瀬の…、どうしたのかね?」

 『市野瀬の…』と言った位だから、父の年上か、同い年かのどちらかという事が分かった。

「あの聞きたいことがあるんですけれども」俺は丁寧に相手の眼を見てそう言った。

 何か彼の眼からは、あの日見た職員室での生徒科の教師と同じような目つきを感じた。

 俺を憐れむような眼をしていて、居たたまれない気分がするのだ。

「何を聞きたいんだね?」

「十年前の事なんですけど…」

 そう言った途端、目の前の男の目つきが変わった。別に怒っている訳ではなさそうなのに、険しい顔をしていた。

「十年前というと?」

 その問いに対し俺は小声で答えた。

「ここで自殺した人の事なんです」

「……そのことか、少しこっちへ来てくれ。あまり聞かれたくない話かもしれないから」とその男は俺を招いて、奥のこげ茶のソファーとガラスの低いテーブルのある部屋へ連れて行った。

 そして俺はそこへついて、彼がその部屋のドアを完全に閉めたことを確かめてから、開口一番にこう聞いた。

「あの事の何を聞きたいんだい」

「先程の口ぶりでは何かを知っているようでしたが、何か知っているんですか?」

「…いや、俺もあまり事情は知らない。ただ俺はその時に、ここに居たのは確かだが」そう言って彼はそのこげ茶に腰掛ける。

 俺も彼に手で指図されたので、俺もソファーに腰掛けた。

「私の父はその時何をしていたんですか?」

 彼は思い出そうと難しい顔をしていた。十年も前の事だからあまり覚えていないのかもしれない。今更そんな曖昧な記憶を問いただしても、いい答えは帰ってこないのかもしれないことは分かっていた。

「そういえば…」

「そういえばなんですか?」

「君の父、市野瀬はその時、ここにはいなかった。けれど、確かあの日、私がここに居て、窓越しでダムの方を見た時、確か彼はあの橋の上にいたような気がする」

「橋の上ですか?」

「整備士にとっては別におかしなことではないが、その後、ここには一回も戻ってこなかった。そしてそのあと、電話を受け取ったんだ。彼が事故死したという事を」

「その時に、父は誰かといませんでしたか?」

「いや、それは分からないが、どうしてそんな事を訊くのだね?」

「いえ、別に…。ありがとうございます、では」

 俺はすぐに出て行こうとした。若い三十路に見える女性が粗茶を持ってきたが、俺はそれより早く出て行った。

 そこを出ると、また先程の事務所になっていて、幾数個のコンピューターと制御のモニターが現れていて、文系の俺にとっては何が何だかわからない代物だった。

 また俺を見てくる目が合って、俺は足元を見ながら足早に制御室を出て行った。

 外へ出ると、また轟々とした大きな流水の音が聞こえて、身にしびれて聞こえてくる。春の寒さが、滝のしぶきで余計増していて、俺はそれを背にして、白いワゴン車に乗ってまた山を登り始めた。



 山を数個上っては下り上っては下っていた。初心者には複雑な山道となっているが、何回もここへきている俺にとっては特に迷うような道でもないし、ぶつける程の窮屈な道でもなかった。

 大井川の横を沿う道を走り、数本もの赤い鉄橋が見えた。

 そして俺が帰る先の千頭駅の周辺へきて、大井川を横断する鉄橋を渡り、千頭駅とは反対側の道へ来た。そこは俺の住んでいる集落よりは栄えていて、店も数店あり、そして公共の文化会館もある。そこの駐車場に俺は車を止めた。次はここに用事があった。

 川根本町文化会館図書館。

昔幾度か来たことがあった。蔵書数は通っていた高校よりも少なかったので、高校生になってからは行くことがなかったが、小さいとき、それも小学生くらいの時だった。

 俺は入り口のドアを開けて中へ入った。少しかび臭いが鼻腔を刺した。けれどもそれも何か懐かしさを感じさせるものがあって俺は薄暗い中を安心して入った。

 建物の中は会議室や、講堂など様々な部屋があったが、実際の図書館はとても小さくて、東京の小学校の図書室より大きいか小さいくらいかの瀬戸際だった。

 俺はその中で司書を探した。いくらなんでも司書くらいは居るだろう。

 一人だけその図書館に人がいたので声をかける。利用者はゼロ人だった。

「あのすみません」

「はい?」

 ここに居る人も年老いた人だった。五十くらいのお婆さんで、何となく、高校三年だった時の担任だった古典の教師と面影が似ていた。

「新聞を探しているんですけれど」

「いつの、どこの新聞ですか?」

「十年前の四月六日か七日の静岡新聞でお願いします」

「十年前…」その女性は不思議そうに俺を見つめた。目には皺があって、それでも眼鏡をかけたその瞳は優しそうな雰囲気がした。

「ありませんか?」

「たぶんあると思いますよ。十年前になりますので時間がかかるかもしれません。それでもいいですか?」

「待ちます。それでも今日中が良いです」

 その女性は少し笑って、

「今日中には見つかりますよ、待つと言っても数十分ですから」

 と言って広くない図書館の奥手へ姿を消した。



「お待たせしました。十年前の四月六日と、四月七日の静岡新聞です」

 手に古ぼけたぼろぼろの新聞を持った先程の壮年の女性が来て、それを俺に手渡した。

「ありがとうございます」

 早速、大きな机にいくつも付属している椅子の一つに座って新聞を破かないように慎重に開いた。

 しかし四月六日には俺の探している記事は見つからなかった。

 一応、その日の新聞に載っていないかもしれないと思って、次の日の新聞も探してもらっていたのでそちらを見る。

その新聞の県内ニュースの欄にこんなニュースが載っていた。

『川根本町内の女子高生が、ダム転落自殺』

『川根本町内の成人男性がガードレールを押しのけ事故死』

 大きな見出しで、こう書いてあった。俺は両方の事件を通して見た。

 まず東條美月の事件からであった。


『4月6日午前10時頃、大井川流域で女性の死体が浮いているとの通報をがあった。県警によると、死亡が確認され、行方不明となっていた川根本町内の女子高生であると身元が確認された。一度は他殺が考えられたものの、自宅から遺書が見つかり、自殺が判明した。上流部で女子高生が着ていた衣服の一部が発見されたことにより、ダムからの飛び降り自殺とされている』

 聞いていた通りだった。俺は新聞を読んでいなかったのでこれで少し靄がかかった記憶がはっきりした。

 次は父の記事だった。


『4月6日午前11時頃、川根本町でガードレールを突っ切り炎上している車があるとの通報を受けた。県警は救助隊を向かわせるが、車内で40~50代の男性が焼死していたのが発見された。死亡した男性は現場近くのダムに勤務した市野瀬敏明(48)である身元が確認された。車は回収され、事故原因は車の速度メーターが百二十キロを差した事から、速度違反の事故となっている』

 初めて聞いた内容だった。

 は、何?俺の親は速度違反で死んだのか?なんで?

 俺は一瞬新聞のその記事を凝視して、机に手を置いて立ちつくした。

意味が分かんねぇ。なんでそんなことしたんだよ。そのせいで俺も、母さんも苦しんだんだぞ?なんで死んだんだよ。

 俺は危うく大事に管理されていた新聞に涙を落とすところだった。

 そして俺は頭を抱えて髪を揺すった。ふけが少し落ちていた。そしてもう一度新聞記事を目にしたときに、俺は読み残していた記事があったことを見つけた。次の下の一段にこう小さく書かれていた。


『県警は同日の女子高生自殺により、二つの事件の関与も含め捜査が続けられている』

 それを見た途端、俺は何かが頭に引っかかっていた。

 なんだろう。

 俺は今までの記憶と、彼女の残したもの、そして美星、尋、東條家、そして俺の父親。すべての記憶が俺の頭を通り過ぎて俺はシナプスを繋げていく。

 そして最後に俺の頭に残ったのは彼女の残した小説。あとがき文だった。


 時間はとくとくと進み、風は流れる。いまだ厳しい風が外を吹き荒れて、窓が少し揺れる。かび臭い匂いのするこの図書館で俺は少しずつ流れる春を感じた。

 厳しい春を感じた。

 そして何もない六日の日がまた今年も訪れることをひしひしと感じた。




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