惜別
あけましておめでとうございます
五日の日
なにもない六日の日、俺は何をしていたのだろう。今思い出すと確か、普通に学校へ行っていた。
春の陽気と、まだ寒さの残る朝で、くまのある眠い黒く淀んだ眼を鏡で見て、そして家を出てバスに乗った。
山を一つ越えた先のバス停には誰もいなく、そのまま通り過ぎ、そして青春が感じられる数多の木々の葉と立ち並ぶ桜の花を靡かさせる風が吹いて、その中の並木道を俺は平然と歩いていた。
クラス替えの確認はすぐに終わった。文系クラスの上部を見るだけで済んだのだから。
そして最初のホームルームが始まった。担任教師はこの学校に何年もいる壮年の女教師で、古典の先生だった。
そして聞かされたのは教師の紹介とその教師の教育モットー、三年生の厳しさについて語られた。
『ターニングポイント』
その話が俺の耳に入って通り過ぎた。
そしてその日の授業が終わろうかという正午に近い時間の事だった。
俺は窓辺を向いて、どこへでもない、ただ向こうの山まで突き抜ける風景を窓越しに見ていた。最初は出席番号順で席が決まるので窓の横に俺は座っていた。
耳に悪い三年生にとっての受験という言葉。いまだ今年の学園祭も終わっていないのにそんな言葉がかかってくると胸が痛くなる。
それより俺はどうしようか、受験なんて言っても行きたい大学ないし、一緒に行く人もいないし、一人で大学に行くの嫌だな。親の収入あんまりよくないから国立いかないとやばいな…。
俺はそんな事を考えていた。十一時四十五分。授業が終わるまであと十五分だ。
すると、授業中であるのに、急に校内放送がかかり始めた。避難訓練でもないし、前触れのない放送だった。
その内容はこうだった。
『授業中でも構いません。33HR市野瀬一矢、担任の教師、供に至急職員室まで来るように』
周りがざわめいた。三組の全員の眼が俺に向かっていることがわかった。そして俺は担任を見た。担任も何が何だかわからないような顔をしていて、ベテラン教師の顔がはがされるかのようだった。
そして操られるように立ち上がって、担任の後に続いて教室を出る。教室を出るまで無音だった教室が、俺が出て、ドアを閉めたのちに騒がしくなった。
それから遠ざかっていく、けれども他のクラスでも騒がしいのは同じで、その騒がしさが俺をどこまでも追いかけてくるようだった。
担任は話しかけたが俺は何も返事をしなかった。
「何があったのかわかる?」
「いいえ」
俺は軽く首を横に振ってまっずぐ向いて歩き続けた。
廊下のしんみりとした雰囲気が、周りのクラスの雑踏に混じって可笑しな気分がした。
そして教室前に辿り着いた。俺はドアの前に立ち尽くし何もしないのでその教師が少し緊張した趣で引き戸を開けた。
職員室へ入ると、俺が教室で味わった雰囲気を感じた。
そこにいる教師全員が俺の方を向いてくる。そして驚いた顔をする。中には身震いしている教師もいた。
その中を平然と歩いた。ドアを開けた担任はそこに立ち尽くしてこう尋ねる。
「どうしたんですか?」声が震えていた。
それはそうだ。担任になったばかりのクラスに、授業中職員室に呼ばれるほどの生徒がいるとなると頭が痛くなるほどの事だ。
俺も内心、何が起こったのかわからなかった。だけどその内容は決して良いものでは無い事がわかっていた。
目の前に生徒科である少し禿げた眼鏡をかけた中年太りの教師が来て、俺の前で立っていた。髪を持っていて、裏には全く関係のない小テストの内容が記入してあったので、これはメモに使われたものだと分かった。
「君が市野瀬君かね?」低く太い声でその教師はそう言った。
俺は何も言う気がしなかったのでただ頷いた。
するとその教師は真面目でシリアスな顔を一層厳しく仕立て、俺の顔を覗く。
「江川先生も一緒に聞いてください」
その教師は三十三組の担任、つまり俺のクラスの担任の教師に向かってそう言った。話を聞いていなかったせいか、誰だかわからなかったがようやくその教師が江川だと知った。
その教師も、俺と同じく生唾を飲み込んで頷く。
「心して聞いて欲しい。今からいう事は全部本当の事だ」
俺はそれを聞いたとき、ただならぬ緊張を感じ、そして唾を飲み込んだ。
「とても申し辛い事なのだが、今日の九時半ごろ、東條美月さんが自殺したそうです」
「えっ…」最初に声を出したのは担任だった。
職員室に居る周りの教師達は既に事情を知っているようでずっと真剣な眼差しをこちらに向けてくる。校長室から校長が出向き、そしてこちらを覗く。
俺は乾いた唇を開いた。
「なぜ…俺を呼んだのですか?」
なぜ俺を?彼女と俺は縁を切ったんだ。死んだからって、死んだからって、俺は。今日は四月六日だ。俺にとって平穏で、つまらなくて、世界の端に居る一人の何もない日なんだ。頭でずっとそれを螺旋させていた。
「君は以前、彼女と交際をしていたらしいと聞きました。何か事情があったのではないかと思いまして。そしてもう一つ言わなければならないことがあります」
俺はその時、彼女の事しか頭になかった。昨日限りで縁を切った彼女、東條美月の事を。
「聞いているかい?」その生徒科の教師は俺の肩の上に手を置いた。
俺はそれを振り払うのも億劫になって、そのまま黙りつくした。
「君とってもう一つ悲しい出来事が、よくしっかり聞いて欲しい。君のお父さんがさきほど、十時ごろ、事故でなくなったそうだ」
「はっ?」ふいに声を出してしまった。迷い込んだ不確かな声で、俺自身も驚いてしまった。
そしてその瞬間、一つの言葉が俺の脳内を支配した。
『死』
その言葉が俺の目の前に立ち尽くした。
「どういう…」
「運転を誤って山道のガードレールを車で突っ切ってしまったらしい。今すぐ向かってほしい。君のお母さんからもそう聞いている」
俺は力を無くして立っていることも辛くなった。目の前が本当に真っ白く見える。色のない、鮮やかでない、モノクロの。
俺は口を半開きにして、眼を泳がせていた。俺の周りでは俺より何個も上の大人ばかりなのに、俺を見るだけで、誰も庇おうとはしてくれなかった。逆にありがたく感じた、だから俺はすたすたと職員室から出た。
すると担任が後を追ってきて家まで車で送ってくれると言った。帰る術を思いつかず、歩いても帰ることが出来ない気がしたのでそうさせてもらった。
俺は美月か、父親か、どちらの方へ行くなどと考えなかった。
担任は事故をしないように、早すぎず、そしてゆっくりすぎず車を運転していた。そうすると途中でパトカーが一台止まっていた。クレーン車が帰っていった。そして壊れたガードレールがあった。
俺はそれを見た瞬間、急に吐き気を催してかろうじて車の窓を開け、外に吐き出した。口の中で生臭い匂いと、胃液のだらだらした感じが混ざり合っていて、俺の今日一日、そして昨日から抱えていた何かをすべて吐き出したような感じだった。
担任は大丈夫かと車を止めて大声をかけるが、俺にはその声が届いてこない。ただ落ち着かない呼吸をし続け、目を瞑って、この場を去ることだけを考えていた。
恐らく父が事故したこの場所は一本道のアスファルトの道で、通行止めが出来ないので、極力車を減らしての作業をしていたのだろう。現に、父の死が判明して、身元確認を終え、そして学校まで連絡が来たのだから。
そして口内の嫌なにおいと渦巻く感情に耐え、車に揺られてようやく家に辿り着いた。
家に着くと玄関を入ってすぐ左手にある神棚の近くに母の姿があった。
担任は俺が家に入ったのを見ると、すぐに車を動かした。美月の家に行くのだという。俺には関係のない話だった。
そして俺は母親の方へ行った。
そこには父親はいなかった。事故原因を調べるために、検視されているのかもしれない。
「母さん…」そう言った。何をいう訳でもなかったのに、たぶん自分の所在を伝えたかったのかもしれない。
母さんは振り向いた。そしてどこかで見たような黒く淀んだ瞳を見せ、その下には垂れ流しにしている涙があった。
感じるのは絶望だった。
母さんは力がない様子で、足を外に畳んで、腰を曲げて、座っていた。
「父さんは」
「死んじゃった。死んじゃったのよあの人は」そう言った。
俺は何も声がかけられなかった。電気がついていなく、薄暗い部屋の中にいた。肌寒くて春風が吹いた。それは決して温かくなくて、冬の厳しさを物語っていた。
俺は涙を流していた。気が付かなかった。口元にしょっぱいのか酸っぱいのかわからない液体が流れ込んで、俺はそれを味わって、こう言った。
「行こう」
母さんは頷いた。こんな母を見たのは初めてだった。
数日後、父の葬式が行われた。
結局、父は事故死と判明された。新聞は読まなかったが、普通に道なき道に突っ込んだらしい。
そして美月の葬式も行われた。父と同じ日だったので俺は行くことはなかった。お別れならもう言ったし、彼女もあの日の前日はそのつもりだったのかもしれない。だから俺はなんとも思わなかった。ただ父の死を悼んだ。
やはり彼女は自殺だった。遺書が見つかって、その内容は『人生に疲れた』とか『楽になりたい』だとかだったらしい。学校で耳にした。
テレビのニュースでも取り上げられていて、俺の父さんが働いていたダムの橋の上から落ちたらしい。単純な事だったのだ。
俺はあの事件があってからも普通に学校へ通った。母は元気がまだ出そうになく、仕事を休んで、家事も出来るだけ俺がやった。
辛くはなかった。辛いと感じたらやっていけない気がした。父が死んだのはとても悲しかった。無口な父親で親しくなかったから余計悲しいのかもしれない。
十七歳にしてずいぶん世知辛い体験をしたものだった。世間的に、客観的に見ると俺はそうだった。恋人を自殺で失い、父を事故で失った。
次第に学校では俺から離れていく人が多かった。高三だけあって、余計な神経を俺への気遣いで使いたくはないのだろう。誰も話しかける人はいなかった。担任ですら俺をいないように扱って、そして母はずっと元気がなかった。
辛いか辛くないか自分でもわからなかった。
ただ、行き帰りにバスの中で、あの壊れたガードレールの修復後を見ると涙が出た。それで俺の感情は流れて行く気がした。
感情をずっと顔に出さないで生きてきた。
そうして時期は流れて、その中で勉強を頑張った俺はレベルの高い国立大学へ入った。
そしてたくさんの出会いをした。高校の時の感情を捨て、心機一転した。
書きたかった小説を書いた。サークルも入った。何より楽しんだ。
母も喜んでくれた。元気を戻してくれた。
冬来たりなば春遠からじ。本当にそうだったのかもしれない。
いつでも厳しい冬は訪れて、希望の光、春が見えてくる。
けれど、何かが違かった。
冬が来て、春が来る。そして四月六日が来て、俺は何もない六日の日を意識して春を迎える。
毎年父の命日、四月六日には実家に帰って線香をあげていた。
そして俺は思い返すと、やはり美月への思いが捨てきれていなかった。
厳しい冬が来て、厳しい春が来る。高校の時に感じていた感情が渦を巻いて、幾年たっても俺を蝕んだ。
結局なんで父さんは死んだの?どうして美月は自殺をしたの?
もしかしたら、いつでも俺の胸にはこのことが残っていたのかもしれない。
十年たった四月四日、川根へ帰る大井川鉄道の列車に揺られ、俺はそう思っていた。




