第8話 片割れ
ヘンリエッテを見送ったのは、ちょうど二日後の朝だった。
灰色の猫のバルタザールは使用人のクララの腕に抱かれて屋敷を出ていった。一度も暴れなかった。
それから五日、イルゼとトビアスは街道沿いのマルタの宿にいた。
トビアスは薪を割り、水を汲み、頼まれてもいない床を拭いた。
宿屋の女将のマルタは「いい拾いものをしたね」と笑い、娘のロッテは「居座る言い訳でしょ」と鼻を鳴らした。
六日目の朝、手紙が来た。
「イルゼさんに。川上の村の、車大工のゲオルクさんからだって」
マルタが前掛けで手を拭きながら、食堂の窓際まで持ってくる。
宛名は大きくて角張った字だった。一文字ずつ紙に押しつけるように書いてある。
字を書き慣れていない手だと、トビアスにも分かった。
イルゼは封を切った。短い手紙らしい。一度読んで畳み、もう一度開いて読んだ。
「……出かけます」
トビアスはもう自分の荷物を取りに階段を上がっていた。
*
川上の村までは半日かかった。
車大工の家は村の入口の橋のたもとにあった。
表の作業場は木屑が掃かれないまま乾いている。組みかけの車輪が一つ、壁に立てかけてあった。
その戸口から鞄を提げた男が出てきた。
背が高くて、肩幅がある。癖のある濃い茶色の髪。
巡回医のカイだった。
向こうも、こちらに気づいた。
「……また、あんたか」
カイはイルゼを見て、それから後ろのトビアスを見た。
「呼ばれたのか」
「はい。ご本人から」
カイは長く息を吐いた。怒っているのとは、少し違う顔だった。
「入ってくれ。本人が待ってる」
*
車大工のゲオルクは奥の寝台に身体を起こしていた。
大きな男だった。六十を二つ三つ過ぎているだろうか。
肩も胸も、木を削り、車輪を担いできた年月のぶんだけ厚い。太い指の節に古い切り傷の痕が白く残っている。
けれど、脚だけが違った。毛布の裾から出た足首が水を詰めたように腫れている。
「看取り屋か」
声は太くて、掠れていた。
「来てくれて、すまん。……字が汚かったろう」
「読めました」
イルゼは寝台の脇に膝をついた。
胸の上がり方。手首。瞼。唇。爪。
トビアスはもう、この順番を覚えてしまっていた。
「心の臓が弱ってる」
後ろでカイが言った。
「水が脚に下りてきてる。胸まで上がったら、そこまでだ。……俺の見立てでは、三日」
「私も、そう思います」
本人の前で言うことだろうか。トビアスは思ったが、二人とも気にしている様子はなかった。
イルゼは顔を上げた。
「ゲオルクさん。お会いになりたい方は、いらっしゃいますか」
ゲオルクは、すぐには答えなかった。
膝の上で傷の痕のある手を開いて、閉じる。
「……いない」
「いるだろう」
カイが口を挟んだ。
「弟が。双子の。去年、あんた自分で言ったじゃないか」
「四十年、口も利いてない」
ゲオルクは窓のほうを向いた。
「川を下って、二日の町にいる。……あいつは来ない」
トビアスは、頭の中で数えた。
行って、二日。戻って、二日。
医者の見立てでは、ゲオルクは保ってあと三日。
足りない。
足りないのに、口のほうが先に動いていた。
「呼んできます」
三人がこちらを見た。
「来ないと言ったろう」
「来るかどうかは、向こうが決めます」
言ってから、トビアスはそれがイルゼの言葉だったと気づいた。
エーリヒの家で、五十年配られなかった手紙を前にして、イルゼがエーリヒの娘に言った言葉だ。
イルゼは、すぐには口を開かなかった。
トビアスを見て、それから、ゲオルクを見た。
「ご本人は、呼ぶなとは仰っていません」
ゲオルクは口を開きかけて、閉じた。
カイが鞄を探って、紙切れに何か書きつけた。
「川沿いの道を行け。日暮れ前に、下りの荷馬車が出る。乗せてもらえれば、明日の晩には着く」
トビアスは紙を受け取って、戸口へ走った。
「……ヴァルターだ」
背中に声がかかった。
振り返ると、ゲオルクがこちらを見ていた。
「あいつの名前だ。粉挽きをしてる。……俺と、同じ顔だ」
*
トビアスが出ていったあと、巡回医のカイは鞄から薬包みを出した。
心の臓を強く打たせる薬だ。苦くて、吐き気が来る。眠れなくもなる。
そのかわり、効けば四日は保たせられる。
「ゲオルクさん。これを、朝と晩に」
「いらん」
ゲオルクは、見もしなかった。
「去年飲んだ。一晩じゅう吐いた。……苦しいのは、もういい」
「四日保てば、弟さんが来る」
「来ない」
カイは寝台の反対側を見た。
イルゼが座っている。背筋を伸ばしたまま、何も言わない。
「……あんたからも、何か言ってくれ」
「ご本人が、要らないと仰っています」
それだけだった。
カイは薬包みを握ったまま、外へ出た。
*
作業場の組みかけの車輪の前で、カイは待った。
ほどなくイルゼも出てきた。
「どうして延命しないんだ」
声を落としたつもりだった。落ちていなかった。
「あんたは魔女だろう。薬がだめなら、魔法で保たせられるんじゃないのか。
延命の魔法を売ってる魔女がいると、町で聞いたことがある」
「延命は、私の仕事ではありません」
「仕事かどうかを聞いてるんじゃない」
「ゲオルクさんの望みでもありません」
カイは作業台に手をついた。乾いた木屑が手のひらに貼りついた。
「本人は、弟が来ないと思い込んでるだけだ」
「そうかもしれません」
「だったら、一日でも保たせてやれば、弟に会えるかもしれないじゃないか」
「それでも、決めるのはゲオルクさんです」
イルゼは、まっすぐこちらを見ていた。
責める目ではなかった。言い訳をする目でもなかった。
カイは、それ以上言えなくなった。
*
その夜、ゲオルクの息が荒くなった。
横になると胸が詰まるらしく、何度も身体を起こそうとして、腕に力が入らずに沈む。
カイは背中に腕を回して、上体を起こした。
「枕を」
言うより先に、イルゼが枕を背にあてていた。二つ重ねて、角度を見て、一つ抜く。
それから窓を半分だけ開けた。
夜気が入って、灯心の火が揺れた。
ゲオルクの息が少しだけ長くなる。
カイは鞄から別の薬包みを出した。
「これは息を楽にするだけの薬だ。……心の臓には何もしない」
イルゼは薬包みを見て、ゲオルクを見た。
ゲオルクが小さく頷いた。
「では、お願いします」
それが、最初だった。
夜半まで、カイとイルゼは寝台の両側にいた。
カイが腫れた脚をさすり、イルゼが乾いた唇を布で湿らせる。ゲオルクが寝返りを打ちたそうにすると、イルゼの手はもう毛布の端を持っていた。
医者の手順とは違う。けれど、無駄がひとつもなかった。
明け方、ゲオルクはやっと眠った。
カイは椅子の背にもたれて、いつのまにか眠っていた。
目を開けたとき、肩に毛布が掛かっていた。
寝台の向こうで、イルゼが同じ姿勢のまま座っていた。
*
二日目は静かに過ぎた。
ゲオルクはほとんど眠っていた。起きている間は窓から橋を見ていた。
一度だけ、表の作業場のほうへ目をやって、言った。
「……あいつのほうが、腕はよかった」
それきりだった。
日が落ちて、カイは窓辺に立った。
川沿いの道が暗くなっていく。
「今頃、どの辺りだろうな」
「着いた頃だと思います」
イルゼは寝台の脇でゲオルクの手首に指をあてていた。
「着いて、弟が来ると言って、それから戻って、二日か」
返事はなかった。
ゲオルクの息は昨日より浅い。脚の腫れは膝の上まで上がってきている。
カイは窓枠を握った。
あの小僧は、着いたらそのまま引き返してくるだろう。休みもしないで、走ってくるだろう。
走っても、道の長さは変わらない。
「……間に合わないのって、つらいよな」
誰に言ったのか、自分でもよく分からなかった。
イルゼはすぐには答えなかった。
ゲオルクの息が、一つ過ぎた。
「……つらい」
カイは振り返った。
この女は、いつも言葉の終わりまで丁寧に話す。慣れました、と言ったときでさえ、そうだった。
今のには、それがなかった。
イルゼの黒い手袋の指が、襟元に触れていた。
小さなブローチの上で、しばらく、動かなかった。




