第9話 同じ顔
三日目の明け方、ゲオルクが目を開けた。
カイは窓辺の椅子で夜を越していた。寝台の反対側にはイルゼが座っている。昨夜から同じ姿勢のままだった。
「……看取り屋」
声は昨日よりさらに掠れていた。
「はい」
「あいつは、来ない」
「そう仰っていました」
「来るな、と言ったのは、俺だ」
ゲオルクは天井を見ていた。
「四十年前、親父が死んだ。この家と、作業場と、借金が残った。
……車大工が二人食っていけるほどの仕事は、この村にはない」
カイは黙って聞いた。
「あいつには、川下に好いた娘がいた。粉挽きの一人娘だ。婿を取って、水車を継がせたいと、向こうの親父は言っていた。
だがあいつは行かなかった。俺一人に借金を背負わせるわけにいかない、と言って」
息を継ぐ。継いで、また継いだ。
「だから、言ってやった。お前の腕なんか要らん。この家は俺が継ぐ。二度と敷居を跨ぐな、と」
ゲオルクの口の端が、少しだけ動いた。
「あいつのほうが、腕はよかったのにな」
カイは昨日の一言を思い出した。作業場を見て、あいつのほうが、と言った。
あれは、自慢だったのだ。
「……それから四十年、か」
「借金は、十年で返した。あとは、ずっと一人だ」
ゲオルクは腫れた脚のほうを見た。
「来ないと思ってた。来るな、と言ったんだからな。……来ないほうがいいと、思ってた」
しばらく、誰も何も言わなかった。
窓の外で鳥が鳴きはじめた。
「でもな」
ゲオルクの声が、揺れた。
「……会いたい」
大きな手が毛布の上で握られた。
「会うまでは、生きていたい」
*
イルゼが立ち上がった。
寝台を回って、カイの前まで来る。
カイは、つられて立った。
「先生」
イルゼは頭を下げた。
腰から深く折って、しばらく上げなかった。銀色の髪が肩から前へ流れ落ちる。
「あの薬を、お願いします」
カイは、すぐには声が出なかった。
おととい、この女は「ご本人が要らないと仰っています」と言った。延命は自分の仕事ではない、とも言った。
その女が、頭を下げている。
言っていることは、変わっていない。決めたのがゲオルクだということも、変わっていない。
変わったのは、ゲオルクのほうだった。
「……顔を上げてくれ」
カイは鞄を開けた。
「苦いぞ。吐くぞ」
ゲオルクが笑った。
「知ってる」
*
薬は効いた。
そのかわり、ゲオルクは昼までに三度吐いた。
吐くたびにカイが背中をさすり、イルゼが口元を拭って、水を少しずつ含ませる。二人とも、もう相手に何をするか聞かなかった。
脈は強くなった。脚の腫れは、引かなかった。
夜になっても、ゲオルクは眠れなかった。薬のせいで、目が冴えてしまう。
眠れないまま、窓から橋のほうを見ていた。
「……まだか」
一度だけ、そう言った。
四日目の昼を過ぎると、脈がまた細くなってきた。
カイは手首から指を離して、窓の外を見た。
「……日暮れまでだ」
イルゼは、何も言わずに頷いた。
*
トビアスが粉挽きの町に着いたのは、二日目の日暮れだった。
荷馬車を降りてから、川沿いの道を走った。水車の音をたどって、町のはずれまで来た。
大きな水車が暗くなりかけた川で回っている。
その横の小屋の戸口で、男が粉袋を担いでいた。
トビアスは足を止めた。
同じ顔だった。
肩の厚さも、太い指も、ゲオルクと同じだった。違うのは、眉にも髪にも粉が白く積もっていることと、脚が腫れていないことだけだった。
「……ヴァルターさん、ですか」
男は粉袋を下ろした。
「車大工の、ゲオルクさんが」
そこまで言ったところで、男はもう前掛けの紐をほどいていた。
「どのくらいだ」
「医者は三日と」
「いつ、そう言った」
「昨日の昼です」
ヴァルターは奥に向かって何か叫んだ。
それから小屋の壁に掛けてあった外套をつかんで、トビアスの横を通り過ぎた。
「来い。夜の渡しに間に合う」
トビアスは、また走った。
*
川上の村に戻ったのは、四日目の夕方だった。
橋が見えたところで、ヴァルターが先に駆け出した。六十を過ぎた男の走り方ではなかった。
トビアスはその背中を追って家に飛び込んだ。
寝台の上でゲオルクが身体を起こしていた。
顔は灰色で、唇の端が荒れていた。枕元に吐いたものを受ける桶がある。
それでも、生きていた。
ヴァルターは、戸口で立ち止まった。
同じ顔が二つ、四十年ぶりに向き合った。
「……来るなと、言ったろう」
ゲオルクが言った。
「言われたね」
ヴァルターは寝台まで歩いて、兄の横に腰を下ろした。
粉の積もった手で兄の背中を支える。
「兄さんの嘘、ずっと知ってたよ」
ゲオルクの目が、見開かれた。
「同じ顔なんだ。嘘をつくときの顔くらい、分かる」
「……だったら、なんで」
「兄さんが、そうしてくれって顔をしてたから」
ヴァルターは笑った。笑いながら、泣いていた。
「水車は、ちゃんと回ってる。子どもが二人いる。孫もいる。……全部、兄さんがくれたものだよ」
ゲオルクは、何か言おうとした。
言葉にはならなかった。
大きな手が、弟の粉だらけの袖をつかんだ。それきり、放さなかった。
イルゼは壁際に下がっていた。トビアスの隣で、じっと動かない。
その夜、ゲオルクは弟の腕の中で逝った。
*
翌朝、カイは作業場の組みかけの車輪の前に立っていた。
イルゼが出てくる。
「……諦めじゃなかったんだな」
カイが言った。
「あんたの言う看取りってのは」
イルゼは車輪のほうを見たまま答えた。
「あなたの薬がなければ、間に合いませんでした」
カイは何も言い返さなかった。言い返すことが、見つからなかった。
戸口にトビアスが立っていた。
目が赤い。一晩中、泣いていたらしい。
「……よかったです。間に合って」
トビアスは車輪のほうを見ていた。
「母が死んだとき、刈り入れの手伝いで、隣の村に出てたんです。知らせが来て、夜通し走って」
声が、少しだけ詰まった。
「着いたら、もう、間に合わなかった」
イルゼは、トビアスを見ていた。
何も言わなかった。
*
帰りの荷馬車にカイも乗った。巡回の道が、しばらく同じだった。
トビアスは荷台に揺られてすぐに眠った。四日ぶんの疲れが、一度に来たのだろう。自分の荷物の包みを抱えたままだった。
その横にイルゼが座っている。
カイは向かいに座って、なんとなくイルゼの手元を見ていた。
イルゼの手が、膝の上の鞄に伸びた。
留め金に指が掛かる。黒い手袋の指が、そこで止まった。
しばらく、そうしていた。
それから、手を膝に戻した。鞄の口は、閉まったままだった。
荷馬車が道の端に寄った。
向こうから黒塗りの大きな馬車が来る。四頭立てで、扉に金の飾りがついていた。
すれ違うとき、御者台の男がこちらの荷台を見下ろした。
馬車が行き過ぎてから、荷馬車の親父が首をすくめた。
「おっかねえ。……延命の魔女が、来てるんだとさ」
イルゼは馬車が去っていったほうの道を、しばらく見ていた。




