第7話 慣れました
朝のうちに、イルゼは広間へ下りた。
トビアスも後ろからついていった。ついてこいとは言われなかったが、止められもしなかった。
ヘンリエッテの甥夫婦と姪が卓を囲んで茶を飲んでいる。昨日と同じ黒っぽい服だった。
「心残りを、伺いました」
イルゼが言った。
「あの猫の、行き先です」
甥がカップを置いた。
「それは聞いた」
「どなたに託したいかまで、伺いました」
部屋が静かになる。
「水仕事をしている、使用人の娘さんです」
姪が聞き返した。
「……あの子に?」
昨日、この人たちは土地の話をしていた。次に屋敷の話をして、それから公証人の話をしていた。
猫一匹の話で三人が同時に顔を上げたのは、それが初めてだった。
「冗談じゃないわ」
甥の妻が言った。
「伯母さんは、もう頭がはっきりしてないのよ」
「はっきりしておいでです」
「だったらなお悪いじゃない」
カップが受け皿の上で鳴った。
「あの子に猫をやると言い出したなら、ほかにも何か言い置いてるってことでしょう。
……あなた、何を聞いたの」
「心残りを伺うのが私の仕事です」
イルゼは答えた。
「伺ったことは、ご本人のものです」
甥の妻が鼻を鳴らした。
そのとき、階段の踊り場から声が落ちてきた。
「猫の話に看取り屋が要るのか」
教会の神官のベルトラムだった。昨日と同じ黒い法衣で、手すりに片手を掛けている。
「獣の行き先を遺言のように扱うものではない」
「遺言にはいたしません」
イルゼは階段のほうを見もしなかった。
「ご本人が、ご本人の口で仰ることです」
トビアスは黙っていられなくなった。
「あの」
声が裏返った。
「……ヘンリエッテさんは、まだ生きてます」
甥夫婦と姪がこちらを見た。
それだけ言って、あとが続かなかった。
*
少女は裏の井戸にいた。
水仕事で赤くなった手で桶の縁を握っている。丈の合っていない前掛けは、昨日と同じものだった。
トビアスが切り出すと、少女は最後まで聞かずに首を振った。
「いただけません」
「でも、ヘンリエッテさんが」
「わたしは来月にはお暇をいただきます」
桶を持ち上げる。
「このお屋敷は、たたまれますから。行く先も決まっていません。
……猫を連れていける先じゃありません」
「連れていけるところを探せば」
「奥様のものですし」
トビアスは、なおも食い下がった。
「ゆうべ、水を持ってきましたよね。あのとき、寝台のほうを一度も見ませんでした」
桶の縁にかかった手が、止まった。
「……見ないようにしているんです」
「なんで」
「見たら、お暇をいただく日に困りますから」
それだけ言って、少女は井戸端を離れた。
トビアスはその背中を見送った。
そうしてから気づいたことがある。
この屋敷に来てから、誰ひとり少女を名前で呼んでいない。甥の妻も姪も「あの子」と言った。自分も、名前を知らないままだった。
厨房の横を通ったとき、ふと足が止まった。
窓が拳一つぶん開いている。
昨日、猫がそこから入り込んで、料理女に悲鳴を上げさせた窓だった。
外側の桟に木の皿が置いてある。中は空だったが、縁に脂の跡が残っていた。
トビアスは、しばらくそれを見ていた。
*
夜、巡回医のカイは二階の椅子に腰を下ろした。
トビアスは階下で寝かせた。昼のあいだ猫を追い回して、目を開けたまま船を漕いでいたからだ。
寝台の反対側にイルゼが座っている。背筋を伸ばしたまま、動かない。
ヘンリエッテは眠っていた。胸の上で猫のバルタザールも丸くなっている。
灯心を細くした部屋に、息の音だけが続いた。
カイはそれに何度も耳を戻した。数えるのが癖になっている。
「……なあ」
自分の声が、思ったより大きく聞こえた。
「あんた、怖くないのか」
「何がでしょう」
「人が死ぬのが」
イルゼは、すぐには答えなかった。
ヘンリエッテの息が、二つぶん過ぎた。
「慣れました」
カイは次の言葉が出てこなかった。
怖くない、でもない。悲しくない、でもない。慣れた。
その言い方が、やけに寂しかった。
「……何年やってるんだ、この仕事」
「長くなります」
「何年だ」
「数えていません」
イルゼはそう言って、ヘンリエッテの手首に指をあてた。
黒い手袋のまま、脈を取っている。
老婦人が寝返りを打とうとして、うまくいかずに呻いた。
イルゼは枕の位置を直した。それから低く何かを口ずさみはじめた。
節はゆっくりで、同じところを二度回る。低い、眠りに誘うような調子だった。
ヘンリエッテの呼吸が少しずつ浅いところへ落ち着いていく。
「……それ、何の唄だ」
「古い唄です」
「聞いたことがないな。この辺りのか」
「この辺りのです」
イルゼは口ずさむのをやめた。
「もう、歌う人がいないだけで」
カイは、その横顔を見た。
この女がいくつなのか、自分は知らない。
*
夜半を過ぎてから、イルゼが立ち上がった。
「お呼びしてきます」
「誰を」
「水仕事の娘さんを」
カイは廊下のほうを見た。親族は屋敷の反対側で休んでいる。
「……向こうが起きるぞ」
「起きる前に済みます」
連れてこられた少女は戸口から中へ入ろうとしなかった。
イルゼは呼びつけなかった。
代わりに、部屋のほうを整えはじめた。
枕をもう一つあてて、ヘンリエッテの上体を少しだけ起こす。灯りを寝台の脇まで寄せて、灯心を伸ばす。
胸から滑り落ちていた猫を持ち上げて、老婦人の腕の中に戻した。
それから、枕元の椅子を引いた。
少女のほうを見ずに、椅子だけを、少し動かした。
少女が、一歩入ってきた。
もう一歩入って、椅子に腰を下ろす。赤くなった手を前掛けの上で握っている。
イルゼは壁際まで下がった。それきり、何もしなかった。
カイも動けなかった。
ヘンリエッテの瞼が開いたのは、それからすぐだった。
「……クララ」
老婦人が言った。
少女の肩が跳ねた。
カイは、その名を初めて聞いた。この町に来るたびこの屋敷に上がって、何度も廊下ですれ違っていたのに、一度も耳にしたことがなかった。
「はい」
「この子をね」
息を継ぐ。継いで、また継いだ。
「頼めるのは、あなただけなの」
少女は首を振った。
「わたし、来月にはここを出ます」
「知っていますよ」
ヘンリエッテは笑った。
「だから、連れていってちょうだい」
少女の口が、開いたまま止まった。
「この家に置いていったら、この子は誰の猫でもなくなるでしょう。
……あなたが毎晩、厨房の窓を開けてくれていたことも、知っています」
少女の顔が、ゆっくり崩れた。
老婦人の腕から、猫が自分で乗り移った。
バルタザールは少女の膝に丸くなって、前足を揃えた。それきり動かなかった。
少女は赤くなった手で、その背中に触れた。
「……はい」
*
夜が明けた。
窓の外が白んで、庭の薔薇の残骸が少しずつ形を取り戻していく。
少女は猫を抱いたまま、椅子で寝入っていた。ヘンリエッテも眠っている。
カイは廊下に出て、壁に背を預けた。
目の奥が痛い。徹夜はこの仕事では珍しくもないが、三十を過ぎてから、明け方の一刻がこたえるようになった。
戸が開いて、イルゼが出てきた。
カイはそちらを見て——見たまま、動かなくなった。
髪が乱れていない。
目も赤くない。おとといの朝、宿の食堂で会ったときと、どこも変わっていなかった。
同じ部屋に、同じだけいたはずだった。
「先生」
イルゼが言った。
「あと二日ほどかと思います」
声にも、何も混じっていない。
階段を下りていく足音が遠ざかってから、カイは鞄から診療ノートを出した。
ヘンリエッテの脈と、呼吸の数を書く。煎じ薬の量を書く。
それから、頁の端に一行だけ足した。
徹夜明け、疲労の徴候なし。




