第6話 猫の行き先
その男は笑いながら食堂に入ってきた。
宿屋の女将のマルタと何か軽口を叩いていたらしい。鞄を椅子の背に掛けて、腰を下ろそうとして——窓際に目をやって、止まった。
トビアスにもすぐ分かった。
マレーネの家の戸口に立っていた、あの巡回医のカイだった。
「……あんたか」
「おはようございます」
イルゼが頭を下げる。
カイは座らなかった。椅子の背に手を掛けたまま、しばらくそこに立っていた。
「仕立て屋の、あのときの」
「はい」
カイは何か言いかけて、やめた。それを二度繰り返した。
トビアスは腰を浮かせた。言ってやろうと思った。この人は、マレーネさんの心残りを、三日も寝ずに探していた。あなたは何も知らない、と。
「トビアスさん」
隣からイルゼが静かに呼んだ。声は低くも強くもなかった。
それだけで、浮かせた腰が椅子に戻った。
*
屋敷の使いの子が飛び込んできたのは、そのすぐあとだった。
「先生、ヘンリエッテ様が!」
カイは鞄をつかんで、もう戸口へ向かっていた。
三歩行って、振り返る。
イルゼが立ち上がって、鞄を肩に掛けているのを見たからだ。
「……なんで、あんたが支度をしてるんだ」
「この宿にお手紙が届いていました」
カイの顔から、表情が抜けた。
「ご本人からです」
*
屋敷は広場から坂を上った先にあった。
石造りの門があって、庭に薔薇の残骸が刈り込まれている。この町でいちばん大きな家だと、道々、使いの子が得意そうに教えてくれた。
玄関を入ってすぐ、カイは足を止めた。
広間に人が固まって、声を落として言い争っている。
ヘンリエッテの甥夫婦と姪だ。三人とも喪服でもないのに黒っぽい服を着ていて、それがカイには薄気味悪かった。
土地の話をしていた。次に屋敷の話をして、それから公証人をいつ呼ぶかという話をしていた。
ヘンリエッテは、まだ生きている。二階で。
「カイ先生」
階段の下から声がした。
リーネだった。二十歳になったばかりの、薬草師の娘で、老医師ドレクの孫だ。濃い金茶の髪を一本に編んで、背中に垂らしている。日に焼けた腕に籠を抱えていた。
「煎じ薬、昨日と同じものを置いていきました。祖父の見立てだと、あと二日か三日だろうって」
「ドレク先生は」
「足が痛いって寝てます。あの人、自分の足には何も飲まないんだから」
リーネが笑って、カイもつられて笑った。
笑ってから、この家で笑うことではなかったと思った。
そのとき、玄関から黒衣の女が入ってきた。
広間の言い争いが、ふっとやんだ。
階段の踊り場にいつのまにか男が立っていた。教会の神官のベルトラムだ。五十くらいの痩せた男で、背が高い。薄くなった白髪に、黒い法衣。その手が、手すりを握った。
「……なぜ、看取り屋などがここにいる」
ベルトラムはカイを見て言った。カイに言われても困る。
「終油はこちらの領分だ。魔女の商売に立ち入られる筋合いはない」
「承知しております」
イルゼが答えた。
「儀式には触れません。呼ばれたことだけをします」
ベルトラムは口を引き結んだ。
黒衣の女はそれ以上何も言わずに階段へ向かう。すれ違うとき、神官は半歩、身体を引いた。
カイは、それを見ていた。
人はあの女から半歩下がる。下がられ慣れている歩き方だと思った。
*
ヘンリエッテは思っていたより小さな人だった。
天蓋のついた寝台の真ん中に、すっぽり収まってしまっている。七十半ばくらいだろうか。銀に近い白髪を寝たままでもきれいに結い上げていた。
枕の上に出ている手首が、細い。指輪が三つ、くるくる回るほど緩くなっている。
その胸の上に灰色の塊が載っていた。
塊が、顔を上げた。
猫だった。長毛の、ひどく太った猫で、片方の耳の先が三角に欠けている。
「バルタザールと申します」
老婦人が言った。本人の名乗りかと思った。
「この子がです。わたくしはヘンリエッテ」
イルゼは寝台の脇に膝をついた。
胸の上がり方を見る。手首に指をあてる。瞼を持ち上げて目を見る。唇を見る。爪を見る。
医者の手順だった。順番も、見ている場所も、カイがやることと変わらない。
違うのは、そのあとに何もしないことだけだった。
「お呼びいただいて、ありがとうございます」
「勝手に呼んでごめんなさいね。カイ先生に叱られるわ」
ヘンリエッテは笑った。笑うと息が浅くなって、少し咳き込んだ。
「あの子たち、下で騒いでいたでしょう」
「はい」
「正直な子たちよ。隠さないだけ、ましだと思うことにしてるの」
イルゼは頷いた。慰めも、相槌も打たなかった。
「心残りを、伺います」
ヘンリエッテの目が胸の上の猫に落ちた。
「この子の、行き先」
*
その言葉が階下に伝わるまで、四半刻もかからなかった。
「猫?」
甥の妻が聞こえよがしに言った。
「猫くらい誰でも飼えるでしょう。そんなことでお医者と看取り屋を呼んだの」
バルタザールは、その声を聞いていたのかもしれない。
昼過ぎに開いていた二階の窓から出ていった。
*
庇の上を歩く猫を、トビアスは下から見上げていた。
「バルタザールさん。……バルトさん」
猫は振り返りもしない。
梯子をかけて上がると、猫は反対側の屋根へ移った。庭へ回ると、生垣の中へ入った。生垣を回り込むと、厨房の窓から中へ入り、料理女に悲鳴を上げさせた。
半刻後、トビアスは薔薇の茂みの奥から猫を両手に抱えて出てきた。
腕に三本、頬に一本、赤い線が増えていた。
「捕まえました」
玄関に運び込むと、猫は身をよじって腕から抜け、すたすたと階段を上がって、自分で寝台に戻った。
イルゼが階段の下に立っていた。
トビアスは息を切らして、両手を膝に置いた。手の甲から細く血が出ている。
イルゼは、その手を見ていた。
「……すみません。逃げられました。いや、戻りましたけど」
「猫は、行きたい先に行きます」
そう言って、彼女は玄関のほうへ歩き出した。
「出かけます。ついてきなさい」
*
広場の雑貨屋は、金物と麻縄と蠟燭が同じ棚に並んでいるような店だった。
イルゼは店の奥で足を止めた。
壁に革の手袋が吊るしてある。男物の、指の太い作業用だ。
彼女はそのうちの一組を手に取った。裏を返し、縫い目を見て、指の長さを測るように自分の手にあてる。
それから、振り返った。
トビアスは猫に引っかかれた手を上着で拭いているところだった。
その手にイルゼの目が、一瞬だけ留まった。
「……何ですか」
「いいえ」
店を出たとき、彼女の手には何もなかった。
鞄の口は、閉まっていた。
*
宿に戻ると、マルタが勘定をつけに来た。
イルゼは財布から硬貨を出して、卓の上に並べた。
マルタがそれを一枚つまみ上げて、窓のほうへ持っていく。
「……イルゼさん」
「足りませんか」
「足りるも何も」
マルタが吹き出した。
娘のロッテが横から覗き込んで、ひったくるように取った。
「うっそ。これ、おばあちゃんが子どものころの銭だよ。『大公さまのころの』ってやつ」
ロッテは硬貨を灯りに透かした。
「どこで手に入れたの、こんなの」
「……普通に、使っていましたが」
「使えないってば!」
母娘が声を揃えて笑った。
イルゼは笑われている意味が分からないという顔で、その硬貨を見ている。それがまた可笑しいらしく、ロッテは卓に突っ伏した。
トビアスも、つられて笑った。笑いながら、この人と歩きはじめてから、初めて声を出して笑ったと気づいた。
卓のいちばん端に、カイが座っていた。
夕食の皿には、まだ半分残っている。彼はそれに手をつけないまま、硬貨を持つ黒い手袋の指を、じっと見ていた。
*
夜、イルゼとトビアスは屋敷へ戻った。
二階の部屋は昼より静かだった。親族は屋敷の反対側で休んでいる。
ヘンリエッテは起きていた。バルタザールが、また胸の上にいる。
水差しの水を替えに使用人の少女が入ってきた。
十四か十五だろう。小柄で、丈の合っていない前掛けをしている。水仕事で赤くなった手で、水差しを両手で抱えていた。
少女は寝台のほうを見ないようにして、水を置き、下がっていった。
戸が閉まる。
イルゼが口を開いた。
「ヘンリエッテさん。その猫を、どなたに」
老婦人は、すぐには答えなかった。
しわの寄った手で灰色の背中を撫でる。ゆっくり、二度。
それから、目を上げた。
その目が見ていたのは、イルゼではなかった。
少女が出ていった戸口を、まっすぐに見ていた。
「……あの子に」




