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第5話 五十年目の宛先

「そんなもの、あるわけがありません」


 朝いちばんに、娘はそう言った。


「父はそういうことができない人でした。雨で濡らした葉書を一枚、届けた先に頭を下げに行って、それで一日つぶした人です。

 配れなかった手紙を持ち帰るくらいなら、次の日また歩きます」


「では、持ち帰らなかったのでしょう」


 イルゼは土間の壁を見上げていた。


 釘に掛かった、古い革の鞄を。


  *


 その日は、ずっとそれの繰り返しだった。


 床板を一枚ずつ踏んで、浮いているところがないか確かめる。梁の上に手を伸ばす。物置の木箱をひっくり返す。壁とチェストの隙間を、燭台で照らして覗き込む。


 トビアスも手伝った。

 半分は、昨日の夜のあの声を聞いてしまったからだ。もう半分は——見つけてやりたかった。母のときは、何も聞けなかったから。


 家の中で開けていない場所は、もうなかった。


 イルゼは鞄を釘から外して卓に置いた。


 留め金を開ける。中は空だった。三十年ぶんの埃だけが、ふわりと立つ。


 イルゼは鞄をひっくり返し、底を指の腹でなぞりはじめた。


「何してるんですか」

「厚みを見ています」


 トビアスも横から手を入れた。


 革は固くなって、ところどころ裏地が剥がれかけている。指を差し込むと、肩紐の付け根のあたりで裏地が裂けていた。


 その奥に平たいものが入っていた。


  *


 紙は、茶色くなっていた。


 四つ折りにして封をした、昔の形の手紙だ。蠟の封がまだ割れずに残っている。


 表に名前が書いてあった。


「……アグネスさん」


 トビアスが読み上げると、娘の顔色が変わった。


「アグネスって、鍛冶屋の」

「ご存じですか」

「知ってるも何も、そこの、三軒先の」


 娘は口を押さえた。


「まだ生きてます。去年、亭主を亡くして、一人で」


 イルゼは封の裏を返した。


 差出人の名は右の下に小さく書かれていた。消印の日付は、五十年前の秋だった。


「クルト……誰ですか、これ」


 娘は首を振った。聞いたことのない名前だという顔だった。


  *


 夕方、エーリヒの目が開いた。


 イルゼは枕元に膝をついて、手紙を老人の目の高さに持っていった。


「エーリヒさん。鞄の裏から出ました」


 老人の目が、白く濁った膜の向こうでゆっくり動いた。


 それから、閉じた。


 開いたとき、目のふちが濡れていた。


「……返さなかった」


 声は掠れていたが、昨夜よりはっきりしていた。


「石切場に、働きに行ったんだ。クルトは。春には戻って、アグネスを嫁にもらうと言って」


 息が続かず、そこで切れた。


 イルゼは待った。急かさなかった。


「クルトから、手紙が来た。……俺が、配る番だった」


 トビアスは、卓の端を握った。


「配らなかったんですか」

「一日だけのつもりだった」


 エーリヒの目が天井を見ていた。


「一日、持っていたかっただけだ。それだけだった」


 一日が二日になって、二日が十日になったのだろう、とトビアスは思った。

 遅れた理由を言えないまま、渡せる日だけがなくなっていく。


 ……この人も、アグネスのことが好きだったから。


 冬に、石が落ちてクルトが死んだ、と老人は言った。

 報せが村に届いたのは、年が明けてからだった。


「今さら渡したら、アグネスはもう一度、クルトを喪うことになる」


 そう思ったのだ、と老人は言った。


 言ってから、少し黙って、言い直した。


「そう思うことに、した」


 そのときにはもう、手紙は鞄の裏地の裂け目に押し込んであった。

 なくしたのだと、エーリヒは自分に言い聞かせてきた。


「三年して、アグネスは鍛冶屋に嫁いだ。……いい亭主だった。子も三人産んだ」


 だから、なおさら言えなかったのだと。


「俺は、五十年、あの鞄を捨てられなかった」


  *


「届けます」


 イルゼが立ち上がった。


 娘が悲鳴のような声を出した。


「待ってください。今さらそんなもの見せたら、あの人が」

「傷つくかもしれません」

「だったら」

「受け取るかどうかは、受け取る側が決めます」


 イルゼは手紙を娘のほうへ差し出した。


「五十年、決める機会を取り上げていたのは、こちらです」


 娘は手紙を見て、それから父を見て、両手で顔を覆った。


 トビアスが、その手紙を取った。


 自分でもなぜそうしたのか分からなかった。


「俺が行きます」


 声が裏返った。


「三軒先なんですよね」


  *


 外は、昼過ぎに降った雨で道がぬかるんでいた。


 トビアスは畑を突っ切った。そのほうが近いと思った。

 足首まで泥に取られて二度転んで、膝も肘も茶色くなった。手紙だけは胸の中に入れて濡らさなかった。


 鍛冶屋の裏の小屋の戸を拳で叩いた。


 出てきた老女は、小さかった。


 背が丸くなって、トビアスの胸のあたりまでしかない。白髪を後ろで小さく丸めて、色の落ちた前掛けをしている。


 その顔が、泥だらけの少年を見上げて、きょとんとした。


「……坊や、どうしたんだい」


 トビアスは息を整えた。整えきれないまま、手紙を出した。


「エーリヒさんから、お預かりしました」


 老女は宛名を見た。


 それから裏を返して差出人の名を見た。


 何も言わなかった。


 しばらくそのまま立っていた。


 やがて顔を上げたとき、その目はもう、トビアスを見ていなかった。


「あの人、まだ持ってたのかい」


  *


 アグネスはその足でついてきた。


 杖も突かずに、泥の道をトビアスより速いくらいで歩いた。


 家に入ると、娘が椅子を引いた。アグネスは座らなかった。


 寝床のそばまで行って、膝をつく。


 エーリヒの目が開いた。


 二人はしばらく黙っていた。


「……アグネス」

「うん」

「すまなかった」

「うん」


 老女は手紙を持ったままだった。


 トビアスはその封が切られるのを待っていた。五十年、誰も読んでいない言葉が、そこに閉じ込められている。


 だが、アグネスは封を切らなかった。


 手紙を両手で持ち直して、それをエーリヒの胸の上にそっと置いた。


 置いた手を、そのまま重ねた。


「クルトの字だね」


 老女は言った。


「読まないよ。読んだら、あたしのものになっちまう」


 エーリヒの唇が震えた。


「あんたが持っててくれたのね」


 それから、アグネスは笑った。


 しわの奥で目がすっかり見えなくなるような笑い方だった。


「五十年も。重かったろう」


  *


 息が止まったのは、その夜だった。


 アグネスは帰らなかった。娘の隣に座って、最後まで手を握っていた。


 イルゼは老人の手から手紙を取り、アグネスに返そうとした。


 アグネスは首を振った。


「持たせてやってくださいな」


 イルゼは頷いて、手紙を老人の胸の上に戻し、その上で両手を組ませた。


 トビアスは、また泣いた。


 今度は、マレーネのときとは違う泣き方だった。悔しくない。苦しくない。ただ、胸の奥が温かくて、それが目から出てくるのを止められなかった。


  *


 翌朝、二人は村を出た。


 街道に出ると、日が高くなりはじめていた。


 トビアスは、泥の乾いた服のまま、少し離れてついていく。

 昨日から一睡もしていない。荷物が昨日より重い。


 黒衣の背中との間が、少しずつ開いていく。


 それから、イルゼの歩調が、わずかに緩んだ。


 振り返りはしなかった。


  *


 町の宿に着いたのは、日暮れ前だった。


 街道の宿場町で、教会と市の立つ広場があって、宿はその広場に面していた。看板に鹿の角が描いてある。


 土間に一歩入ったところで、上から声が降ってきた。


「ちょっと!」


 娘が一人、階段を駆け下りてきた。


 十七くらいだろうか。赤みのある栗色の髪を布で巻いて高いところで結んでいる。そばかすと、気の強い目。手に雑巾を握っていた。


「今そこ拭いたばっかりなんだけど。見なさいよこれ、足跡」


 トビアスは自分の足元を見た。乾いた泥が、床にぼろぼろ落ちていた。


「す、すみません」

「外で落としてから入るの。子どもでも知ってるよ」


 奥から、女将のマルタが出てきた。恰幅のいい、五十過ぎの女だ。袖をまくった腕が太い。


「ロッテ、お客さんだよ」


 マルタはイルゼを見て、あら、という顔をした。


「お久しぶりで。今年は早いんですね」

「ええ」

「お部屋、いつもの空いてますよ」


 それから、トビアスのほうを見た。


「こちらは、お弟子さん?」

「いいえ」


 イルゼは即答した。


「……まだです」


 トビアスが言うと、ロッテが吹き出した。


「まだ、だって」


 雑巾を肩に引っかけて、母親のほうを向く。


「押しかけ弟子じゃない、それ」


  *


 翌朝、トビアスは夜明けに目が覚めた。


 三年の癖だった。この時間に起きて、水を汲まなければならない家に、もういない。


 階下に下りると、食堂の窓際にイルゼが座っていた。


 誰もいない。まだ暗い。


 彼女は手のひらに小さなものを載せて、そこに目を落としていた。


 銀色の、古い懐中時計だった。黒い手袋の指が、蓋の横のねじを、丁寧に、少しずつ巻いている。


 きれいな時計ではなかった。蓋の表は擦れて、彫ってあったらしい何かが、ほとんど消えかかっている。


 巻き終わると、イルゼは蓋を閉じて、耳のそばに持っていった。


 音を、確かめるように。


 トビアスは、そこで初めて足音を立てた。


「おはようございます」

「おはようございます」


 時計は、もう襟元の内側にしまわれていた。


「あの、その時計——」


 言いかけたとき、階段の上からマルタの声がした。


「イルゼさん。巡回のお医者さんが来てるよ」


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